OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

白岩玄「野ブタ。をプロデュース」

 第41回文藝賞を受賞し、芥川賞の選考にも残った小説。作者は普段は漫画しか読まないらしい。タイトルを見て、野ブタの後の「。」は否応にもモーニング娘。を連想させるし、「〜をプロデュース」っていうのは、内Pで内村光良が最初に言う台詞を連想させる。だから、近いものを感じた。
 かなり印象に残った小説です。滝本竜彦の世界観に近いものを感じました。なんというか、不良的なものじゃなくてもっと内的な意味から世界に対して反抗しているんだけど、どことなくダメさが漂っている感じ。今までロックや漫画が担ってきた役割なのかもしれません(例、銀杏BOYZ安達哲の「さくらの唄」)。悶々とした高校時代を送った人にはお勧めです。いや、逆に勧められないかも。
以下ネタバレ含みます。未読の方はあまり読まないでください。

 読んでいて思ったのは、桐谷修二は「ヤナ奴」だということ。一人称で進められるのだけれど、なんだか作者がこの登場人物を「やな奴」として描こうというのが見えてくるというのかな。「野ブタ」こと、信太のこともやはり「ある程度のポジションをクラス内で保った者」という立場から見下しているのが見えるし。だけど、そんな修二がなぜ野ブタをクラスの人気者にしようと思ったのか?野ブタっていうのは「永遠の後輩キャラ」という気がする。だから、外見的なことでいじめられるはあるにせよ、「いい奴」だからいろんな偏見を取っ払ったら好かれる素質がある。おそらく修二がプロデュースを思い立った理由は、ひとつは彼にプロデューサーの才みたいなのがあって、それを使ってみたいと思ったこと。もうひとつは、見下す心のどこかで野ブタの「いい奴」なところにひかれていたということ。
 この作品は、修二が野ブタのプロデュースを終えるところ(野ブタが修二を不良から救い株を上げるところ)で分かれている。むしろここからが本質かなと思うんだけど、親友(とされていた)の森下が不良に乱暴を受けていたところを見捨てた(というより気づかなかった)修二がクラスで見捨てられ、たったひとり救いの手を差し伸べてくれたマリコにさえもその救いの手を払いのけて、転落していく。そして転校した修二は自分をプロデュースして新しい学校で人気者になることを誓う。
 前半部分で野ブタが人気者になったのを評して「もし中身を嫌われていたらどうすることもできないだろう」という意味のことを修二が思う場面があるのだけれど、それが複線になっているのかなという気がする。野ブタをプロデュースした理由の2は、きっと中身がある野ブタを人気者にすることで、自分ができないこと、理想を任せたのかな、という気もする。それだけに、自分がクラス内で築いたポジションはちょっとしたことで崩れてしまう脆い者だと気付いた修二は痛々しかった。マリコの好意を跳ね除けた姿なんて子供っぽいじゃないか。けど、それが今のコミュニケーションの実情なのかなと思った。岡崎京子の「リバーズエッジ」にあったけど、意味のないおしゃべり。僕は作者の白岩玄とは1歳しか違わないので、そういった同時代感覚はわかります。
 最後は転校していったけど、僕から見ればハブられることがそんなにつらいのかなと思ったけど、人気に人一倍すがり付いていた身の修二としてはそれがなくなればもう居場所はないのだろう。だけど、それって何の解決にもならないんじゃないかと思う。

野ブタ。をプロデュース

野ブタ。をプロデュース