シリアス・マン(★★★★★)
2011/6/10鑑賞
@桜坂劇場
コーエン兄弟映画。
この映画の主人公は、自らの「善い」の基準が全て外部にある男です。
「serious」という言葉の2つの皮肉で対照的な使われ方を観てほしい。
この映画を観て思ったのは、自分が悪いと思っていなければ、どんなに無茶苦茶なことでも通ることがある、ということ。
主人公は、きっと周りの人に施しを与えるような生き方をしてきたのだろう。それがユダヤの神に仕えることと信じて。
その結果、彼はたしかに「serious」かもしれないが、周りの人は彼を利用するだけ利用して、そのくせ感謝を1ナノミクロンも感じないようになってしまった。
彼は或る意味周りの人に恵まれていなかったのかもしれない。
できれば、その「serious」さを汲み取って荷物を半分持ってくれるような人がパートナーならよかったのかもしれない。
しかし、彼のパートナーは、彼の「serious」さを利用することだけに才能のある人間だった。
浮気をして、しかしユダヤ教では離婚が禁止されているため離縁状を書くようにいい、挙句浮気のパートナーと一緒に棲むため彼に家を出て行けという。
家のローンを払っているのは彼である。
勿論彼は反論するが、二人は意に介さない。
むしろ、なぜ彼が反対するのかわからないといった表情だ。
ここ怖いよね。
本当は、こういった自分勝手な人が生きていけるのは彼のような「serious」な人間がいるからであり、社会が回るためには「serious」な人間は必ず必要にも関わらず(誰かが我慢する必要があるから)、本気で感謝を表明する人はいない。
そのほかにも色々トラブルが降りかかる。そのどれもいや〜な気持ちにさせられるものばかり。
そのうち、妻の浮気相手が事故で死亡するも、妻は彼に葬式の費用を出せという。
葬式の場で、妻の浮気相手に対する弔辞で「彼はまじめな(serious)男であった」と言われる。
ここまで観てきた観客にとっては噴飯ものの言葉だ。
一方で、主人公がユダヤ教の幹部的役割であるラビに会おうとする際に言う言葉はこれだ。
「僕はまじめにやってきた・・・まじめになろうと努力してきたが」
ここで考えたのがこういうことだ。
周りの人が与える評価というものは、自己評価と直結しているのではないだろうかということ。
主人公に害を与える人たちは、決して自分のやっていることを悪いことだと思っていないだろう。
だからこそ、彼らは心あますことなく幸せになれる。
一方、主人公はどれだけ善行を積んでも、自分には罪があると思っているのだろう。
だからこそ周りの人は彼に対して、善行を積んでいることは認めつつも軽くしか扱えないのだ。
もしエンターテイメントという形を推し進めるためには、彼のその「serious」さを汲み取る人が必要なのだが、コーエン兄弟はそんな救いを与えない。
一時が万事こういった調子で続く。
結局彼は外から押しつけられる倫理から抜け出れない。
夢の中で悪事を続けることから推測するに、彼の中にも逸脱に対する欲望はあるのだろうけど、できない。
自分の思い通りに生きないことも罪であるというのが、僕がこの映画から学んだ教訓だ。
ラストは、韓国人生徒の賄賂に加担し、生まれて初めて罪を犯してやったぞと思いきや難病発覚(?)。おまけに竜巻の不穏さから、ひょっとして巻き込まれて死んじゃったんじゃと思わせるオチ。
今さら悪人になろうとしても無駄だぞ、という神からのメッセージかもしれない。
僕がこれを27の時に観たのは、こうなるんじゃねえぞというメッセージと受け取った。
ただ、近似のテーマを扱ったマーティン・スコセッシ監督の『ミーン・ストリート』(’73)のようなポップさがあれば、もっとそのメッセージをすんなり受け入れられたかもなー、なんて、思ってみたりした。