セカンドバージン(★☆☆☆☆)
2011/9/29鑑賞
@シネマQ
シネマハスラーに送ったメールをコピペ
難解な映画でした。
トリュフォーの映画を『逃げ去る恋』から観たらこんな気持ちになるのかと思いました。
ドラマの再編部分の挿入の仕方が最悪で、おそらくは登場人物の回想という意味合いを持っているのだろうけれど、あまりにも断片的すぎて、意味が分からない!
物語の断片だけを配置して、「これくらいでわかってもらえるっしょ」みたいな感じを共有させているのでは?
ただ、これが害悪なのは、ストーリーが断片的だからとか、理解できないからとか。そういう理由ではない。
きっと、トリュフォーなら『逃げ去る恋』を最初に観ても僕は楽しめると思うんですよ。
なぜなら、あれは4本の映画を通してアントワーヌ・ドワネルという人物の描きこみを深めて行く構成をとっており、その集大成に位置するからです。
『逃げ去る恋』で感動的な場面は、かつてアントワーヌ・ドワネルが愛した女性二人が語りあうことで、初めて彼の外からみたドワネル像が明らかになるところだと思います。
それだけの描きこみをしているならば、たとえ断片的であっても、監督がドワネルという人物にこめた思いを知ることができ、観客は少なくとも何かを得ることができるのではないか。
しかしながら、『セカンドバージン』では、同様の場面があるにも関わらず、鈴木行という人物が全然見えてこない。
鈴木行だけでなく、中村るりも、鈴木麻里亜も、登場人物すべてがこの映画に映っていないところでどういう行動をして、どんなものを愛好して、どういう考え方を持っているのか、ということが
全然見えてこない。
理由は二つある。
ひとつは、登場人物を現す「天才金融マン」だとか「社長令嬢」だとか、「敏腕女性編集者」だという言葉か、が完全に記号としてしか意味してないからだ。
もうひとつは、登場人物の行動原理が完全に破綻しているから。
中村るりと鈴木麻里亜が口論になるシーンで鈴木麻里亜がビンタという行動に出た原理を説明できる人います?
あれだけるりを拒絶していた鈴木行がどうしてセックスしたいと言い出したのか説明できる人います?
平たく言えば、この映画に出てくる人々には「生活」がない。
「生活」がない作品を観ているとなんだかエネルギーが吸い取られていくような気分になります。
おそらくは、自分が何かに対して愛着を持つことで積み重ねられる「生活」を否定されたような気分になるからでしょう。
自分の中の生活感を取り戻すため、もう一本映画を観て帰りました。
間違いなく今年ワーストに位置する出来だと思います。