猿の惑星:創世記(★★★★★)
@シネマQ
以前、改めて『猿の惑星』(’68)を観た時、すごく重苦しい気分になった。
この作品の内包する厭人観はとんでもないレヴェルだと思う。すでに超有名になっている展開もさることながら、結局支配者と成った猿たちの行動様式にも、人間的な嫌な部分が見て取れるというのがある。
きっと、リアルタイムで体験した人は、この部分を最初「猿が文明を築くということの不可能性」として観ていたのではないかと思う。そして、その考えを覆されるのが、有名なラストで、結局のところ人間の愚かさが招いたことであるぞというのを突きつけるのだ。
時代性というのはあるのだろうけど、今の目で見るとさすがに厭人的すぎやしないかと思う。今の時代はもう少し人間に希望を持つような物語が好まれている。それがいいことなのか悪いことなのかはわからない。
さて、リメイク版というよりも、原点である『猿の惑星』の前日譚にあたるストーリーとして描かれるのが本作だ。
時代に合わせてリブートを行う際に、原典に合った厭人観が、或る程度中和されているように感じた。
もちろん、本作には嫌な人物はたくさん出てくる。特に、トム・フェルトン演じる保護施設の職員など、本当に無目的な純然たる悪意という感触を受けた(後に溜飲を大幅に下げる展開があるわけだが)。
ただし、主人公であるウィル・ロッドマン(ジェームズ・フランコ)が優柔不断な善人という立場で、観客の人間に対する注意をすんでのところで食い止める。むろん、彼だって自分のエゴから明らかな犯罪行為を行っているわけで、すべての観客にとって感情移入できるキャラクターではない。むしろ、欠点はあるし、あやまちも犯すもののぎりぎりで共感可能なキャラクターという絶妙なバランスでもって物語を背負っている印象を受けた。
とはいえこの物語の肝が、猿たちの行動様式が描かれるシーンにあることは否定できない。
動物の動きが面白く、観ていて飽きないのは、次の動きがまったく予想できないところにある。つぎつぎと展開される情報は、まさにスクリーンで観る価値があると感じた。
また、この映画が観客の興味を引きつけてしまうのは、怖さにある。
おそらくは、何の動物でもいいけれど、動物が人間と同等の知能を手に入れてしまったら、私たち人間は絶対に敵いっこない。身体能力がけた外れだからだ。つまり、私たちは今安穏と暮らしているけれど、いつその地位が脅かされるかもしれないぞという、無意識的に持っている恐怖心を思い出させる役割がこの映画にはある。
そういった志を持ちつつも、過去の『猿の惑星』シリーズに比べ見やすくなっているのは、この根底に厭人観がある物語を、極めてエンターテイメント的に見せているからだ。
そう、純粋にエンターテイメントとして面白い。
前述した猿の動きの面白さで持って、過去の傑作映画のオマージュ的なシーンが多いのも好感をもった。
観ていて、「これは猿版ダイ・ハードだ」とか「これは猿版ファイト・クラブだ」とか「これは猿版ショーシャンクの空に」だとか思ったもん。
今名前が出てきた映画を好きな人は、観て損はないと思います。