OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

映画けいおん!(★★★★★)


2011/12/3鑑賞@シネマQ

2011/12/13鑑賞@シネマQ



 タンタンからうんたんへ。



 明らかにこの映画を僕は映画として楽しんではいない。

 こういう楽しみ方をした映画がもうひとつある。『モテキ』だ。



 ここ数年、僕はほとんど続きもののドラマやアニメを観なくなった。

 例外が、『けいおん!』と『モテキ』だった。どちらも原作漫画を読んでいたこともあるけれど、原作も映像作品も異なった愉しみ方ができたとおもっている。



 そういう事情もあって、いささか客観性を欠いているかもしれない。



 まず、『けいおん!』という物語には、本来物語を動かす「葛藤」だの「成長」だのはほとんど描かれない。

 一応、軽音部すなわちロックバンドを組んだ女子高生のお話ということになっているものの、肝心の練習風景もほとんど描かれず、部室で紅茶を飲みお菓子を食べながら談笑する姿が描かれる。

 こういったお話って、1話25分の連続アニメならともかく、果たして映画になった際に観るに耐えるものになるのか、少々不安だった。



 しかしながら、僕はこの作品、映画としてかなり満足した。



 もともと思い入れある作品でもあるため、少しでも映画的なポイントがあると過剰に評価してしまうのかもしれない。例えば、オープニングのある茶番が終了して部室の外に出た時の自然光撮影を再現した場面など(光の使い方が全体的に演出としてうまかったとおもう)。

 しかしながら、僕は思うのだけれど、この題材は意外と映画向きだったのでは?



けいおん!』という物語の目的として、キャラクターを愛でることがあるのは否めない。

 さて、愛でるに値するキャラクターを生み出すものはなにか?ひとつは、ストーリーの流れにおいてそのキャラクターの高潔さを見せること、もうひとつは、細やかな描写を積み重ねることで視聴者にそのキャラクターに対する近しい感情を想起させること。

けいおん!』における手法は後者だ。

 そしてこういった、繊細な描写の積み重ねによりアタッチメントを生み出す手法は、案外映画という表現方法と相性がよかったのではないかとおもう。なぜなら、映画は映像によってキャラクターの性格その他もろもろの情報を提供するものだからだ。

けいおん!』の細かな描写というのは、往々にしてストーリーに直接からんでくるものは少ない。あと、京アニ御家芸のぬるぬる動く作画みたいなのも目立っては使われない(少なくともこの映画では)。しかしながら、この作品の場面の隅々まで施された情報量はかなり多く、観ていて飽きなかった。

 映画に没入していると、だいたい80〜90分くらいに集中力が切れて、「ほっ」みたいな感触になる時がある。この時に多幸感を感じることができた映画はよい映画だと思うが、この感覚があった。



 不満点としては、ロンドンから帰国した後の展開はいささかスマートさに欠ける感がある。教室ライブとあずにゃんへの歌のプレゼントの流れはもう少し整理してもよかったんじゃないかとおもう。

 あと、自分がいわゆる萌えアニメを観ていて一番納得いかないのが、かわいいキャラクターを、登場人物が「かわいい」と表現することである。観ている人間としては、そんなの自明の事なんだから、どうかキャラクターの造形とか行動とかで「かわいさ」を示してほしいと思う。

 この作品にももともとその傾向はあるのだけれども、あずにゃんへの歌のプレゼントに関するシークエンスでそれが悪い方向に出てしまった感がある。

 通常、女子が4,5人集まった時の会話など聴くに堪えないものであるのだけれども、放課後ティータイムにはボケとツッコミという双方向性があるために客観性が付加されている。けれども、終盤の会話はどうしても全員が同じ方向を向いてしまうため閉じた印象を与えてしまう。それは意図的なものかもしれないけれども。

 余談だが、この流れ、僕は無印おジャ魔女どれみの最終話のどれみ、はづき、あいこの会話を思い出しました。



 ただ、ラストの回収がわりとあっさりしていたので後味は悪くなかった。




 それと、どうしても言っておかなくてはいけないこと。

 正直、唯や律や澪や紬の高校卒業後の進路の処理について、僕ははっきり言ってこれは噴飯物だと思っています。

 なぜかというと、『けいおん!』というのが徹底して蜜月を描いているお話だからです。

 そもそも放課後ティータイムの設定自体が最大のファンタジーであるわけで、そこを認められるか否かによって左右される作品だと思います。

 僕はそれを許容した上で思うのですが、「蜜月」というのはいつまでも続くわけではない。いつか終りがくるものである。だから、その瞬間瞬間が愛おしいんです。



 特にこの映画では「卒業」という、どうしても避けざるを得ない出来事が描かれます。

 前述の進路については、冒頭でさらっと触れるだけですが、このことが頭をよぎるたびに、彼女たちが盛り上がるのがどうも乗り切れなく感じてしまうんですよね。

 

 これはもう映画の欠点というよりも作品全体の欠点となってしまうわけですが、「蜜月」の素晴らしさを描くためには、終りまで描く必要はないけれども、その予感を描くことが必要不可欠だと思うだけに、どうしてもそれを残念に思いました。