時計じかけのオレンジ(’75/スタンリー・キューブリック)(★★★★★)
2012/1/15鑑賞
DVD
1972年公開。スタンリー・キューブリック監督作品。
この作品にちょっとトラウマがあって、全部は観ていなかったのだけれどもようやくすべて鑑賞。
有名な作品なのでネタバレ全開で行くのでご了承を。
まず、前半の暴力のオンパレード。これは、今観ても全然古びていない。すごく心地よいスピードで進むし、構図もどこをとってみても「これが『時計じかけのオレンジ』だ」といった具合に決まっている。僕は、4人でグループ活動しているというところになぜか均整のとれたものを感じた。
あと、細部の小道具が醸し出すミライ感。小道具の、確かに現代のそれの延長線上にありつつ確かに未来のものという感じで、フィクション感を高めつつも実在感も同時に発生しているあの感じがよかった。この映画が近未来のロンドンを舞台にしており、かつそれが現実と地続きであるということに説得力を持たせている。
個人的には、出てくる女性(ふつうにヌードを披露している)が肉感的なのもよかった。
前半で考えさせられるのは、結局僕たちは映画にポルノ的快楽を求めているということであり、それは暴力でありおっぱいであり笑いであるということ。そして、そのことに伴ういささか背徳的な思いだ。
アレックスは確かに実在していたら共感に堪えない男であるが、映画の中ではヒーローになる。その逆転構図を愉しむのも映画の魅力ではあるが、キューブリックは彼の暴力の結果をきちんと描いているので、簡単には評価ができないようにしている。つまり、観客の感性により彼の人間的評価が左右するように出来ているんだ。この倫理感への揺さぶりのかけ方が実にうまいよねー。
それから、彼が警察へ捕まり、ルドビゴ療法という人格に対する矯正マシンにかけられ、真人間にされた状態で放出されるまでが描かれる。
ここがすごいなーと思ったのは、まずルドビゴ療法の視覚的イメージ(まばたきができないように固定されたアレックスの姿と機械的に点眼される様子。アレックス役のマルコム・マウダウェルはこの機会で失明しかけたらしい)で恐怖をあおりつつ、暴力シーンで確かに快楽を得られるが、度を越してしまうと不快にも思えてくるというのをきちんと観客と共有していることだ。つまり、アレックスが体験しているのは映画の冒頭で僕たちが体験したものにほかならない。
そして決定的になるのがナチス・ドイツの残虐性を示すシーンで、これにベートーベンの第九がBGMにかかっているのだけれども、ここで明らかにこの二つの向かう方向性の違いというか、ベートーベンの旋律に流されてナチスに対して肯定的な評価をしてしまうそうになる心理に対する無意識的な嫌悪が自分の中にも湧き上がるように出来ているのがすごいと思った。
その後釈放されてからもテンションは落ちない。個人的には前半〜中盤までの勢いがあまりにも素晴らしすぎて若干の物足りなさは残るが、これもアレックスの残虐性による落差を出すためにはいたしかたない。
また、物語としては前半のアレックスの行動に対する禊をきちんと行うために避けては通れないところだ。
さて、少し飛ぶ。
やはりラストにはかなり衝撃を受けた。ここで物語がきちんと閉じるのだけれども・・・。
単純にストーリー構造だけ取り出してみれば、主人公がもともと持っていたものを失ってから取り戻すまでの話であり、英雄譚にありがちなものである。だから、単純にエンターテイメントとして面白い。ただ、この「主人公」と「取り戻すもの」があまりにも常軌を逸していて、そこに悪意を感じてしまう。
ハッピーっぽい感じで終わっているけれど、ここからさらなる惨劇が生み出されるからね、といった具合に。
しかしながら、僕はやはりこれもポジティヴなメッセージとして受け取ってしまっていいのだと思う。
この作品は確かに社会的には暴力の連鎖を生むという悪影響があったかもしれない。アレックスのやったことは確かに簡単に許されるものではない。
けれども、私たちの中にある暴力性を否定するのは現実逃避にすぎない。
もし現実の暴力に対抗しようとするなら、自分の中にある暴力性を認めないことにははじまらない。
そういったメッセージを説得力を持ってフィルムに刻んでいると感じた。
このメッセージはヘイズ・コードを脱して間もない当時の社会はもちろん、今なお善意にすがった表現のはびこる現代でも有効であり、まさに古びない映画だと感じた。
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