OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

レイチェルの結婚('08/ジョナサン・デミ)


2012/3/4鑑賞

DVD




 メンヘラ気質のコって、なぜか周囲の人に恵まれているような気がしないだろうか?
 人付き合いのルールとして、なるべく笑顔でいることとか、人の話をよく聞くこととか、そういったものがあると教え込まれてきた。にもかかわらず、前述の傾向のある人たちはなぜあれだけ周りの人がかまってくれるのだろう?そんな悩みを覚えたこともある。



 さて、この映画はそういった関係性が家族の中に落とし込まれた場合を描いている。
 序盤はジャンプカットや、ドキュメンタリー的なカメラワークなどを多用していて映像的に飽きさせない。これは、是枝監督の『歩いても歩いても』('08)と同様、脚本上でこの家族が抱えている問題であるとか、過去に何が起こったのかが登場人物の台詞から徐々に判明する展開をとっているので、観客が退屈しないようにという配慮になっている。後半に行くに従い普通の演出に移行していく。


 中心となるのは、結婚式を迎えたレイチェル(ローズマリー・デウィット)と、その妹で、ドラッグ依存症により施設に入っていたキム(アン・ハサウェイ)の関係性だ。
 前述のとおり、キムはその危なっかしさから、周囲の人から構われてきたわけです。問題なのは、キムもそのことに自覚的で、なんでも自分が中心でなくては気が済まないような、一種コドモの価値観を持っているということ。早い話がかまってちゃんだ。結婚式前夜の夕食会でのスピーチの居たたまれなさが見事だった。このスピーチの後に、レイチェルの婿の友人がスピーチの中でマリファナをジョークとして入れている構成も気が効いていた。つまり、キムの行動が冗談ではすまないレベルになっていることの暗示となっている。
 一方で、レイチェルは典型的な長女気質というか、きっと両親や周囲の人々もキムの世話にかかりっきりになっていて自分だってかまってほしい時にもかまってもらえなかったという思いを持っているのだ、そんなレイチェルがようやく幸せになれるとき、そして主役になれるときがやってきたのに・・・、という煩悶がここには渦巻いている。
 つまりだ。レイチェルにとって実はキムは自分の持っていない全てを持っている者だ。自分が手に入れられなかった周囲の人々からの「愛」を全部持って行ってしまう。ここまで我慢してきたのだから結婚式の今日くらいは自分がそれを受けたいのに、キムはこんな時にさえそれを持っていこうとしてしまう。



 それらの思いが増幅されて、爆発していくところにこの映画の面白さがある。
 
 けれども、キムが周囲の人から受けていたものは決して「愛」ではない。実際の愛は結婚式でレイチェルがシドニーから受けたものだ。
 タイトルが「レイチェルの結婚」であることもそれを象徴している。


※以下ネタバレ含む

 この映画は言うなれば無調状態で終わる。
グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』('97)が近いような気がするけれども、あれはまだ希望を感じることができた。いわゆる長調の終わり方だ。
 いっぽう、この映画のキムの決断は、周囲の手助けを断りその場を去るというパターンは同じものの、結局キムはこの結婚式を通じて成長を遂げたかと言うと疑問が残ることから、やはり彼女が破滅へと向かって突っ走るのではないかという危惧を覚えざるを得ない。ただし、この行動はキムが自分の疫病神気質を認識した(ここは依存症の12のセラピーにて「依存症を認識することこそが回復の第一歩である」という言葉と対になっている)結果のものととらえることもできるので、そこに若干の希望を感じることもできなくはない。しかしながらその希望は実に不安定な基盤に立っている。

 この映画の終わり方はまさにその人の精神状態をうつすものになっていると思った。