苦役列車(西村賢太)
私小説とはゴシップ的愉しみ・
2012/7/31読了
ぼく自身、大学を留年していたころに肉体労働、それこそこの小説に出てくるような倉庫で働いていたことがあって、それも夏真っ盛りの時期だったから、この小説を読むとそのころを思い出す。目途もつかない就職のこと。提出できるあてのない卒論のこと。
ただ、そういった時期って不思議と読書欲や映画欲は旺盛で、たぶんぼくの趣味の基礎が固まったのはこの時期じゃないかなと思う。
あと、なんだかんだでこの時期に労働に従事することのできる自信というものがついた。
個人的にシンクロする部分はもちろんなんだけれども、映画と見比べて改めて小説ならではの表現というのを考えた。
例えば、表題作とともに収められている中編「落ちぶれて袖に涙の振りかかる」では、古書屋で野間宏の古本を購入した翌日に野間文芸賞を受賞したことからゲン担ぎにしている心境が描かれるのだけれども、もし映像化するならここを説明くさくなく描くのは至難の業ではないだろうか。
2本とも、空腹や腰痛といった身体的な苦痛を発端としている。ここはストーリーを進めているわけではなく、いうなれば停滞から話を始めているわけだ。話が動き出すにつれ、徐々にその主人公の抱える煩悶も大きくなる。というよりも、主人公の内面の闇へと進めていくわけだ。
それを主人公に寄り添って行うところにこの話の肝があると感じた。
ぼくは、「苦役列車」の救いはつまるところこの話から20年以上経ったところから語っているところにあり、主人公・北町貫多がどうにか生き長らえ、さらには文才があることが判明しているところにあると思う。
ぼくは、「落ちぶれて〜」の絶望はつまるところ、文才を手にし表現する場所を得たところで劣等感は消えないし、人は離れていくところにあると思う。
そういった楽しみ方が可能なのも、私たちが現在の西村賢太を知っていて、彼がテレビなどに出演し、一躍人気者になったように見える一方で、その性格破綻者ぶりが健在というのを知っているところにある。
西村氏の私小説を読むのは、そんな彼のバックボーンをのぞき見るようなものなのかもしれない。