OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『メイジーの瞳』(スコット・マクギー、デビッド・シーゲル) ★★★★★

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レンタルDVDにて鑑賞。

 ボロボロ泣いた。年間ベスト級。丁寧な演出が刺さる。
 両親の離婚の狭間にいる女の子メイジーを演じるオナタ・アプリールちゃんは、撮影当時6歳で、やせ型の体躯に不釣り合いなほど大きな目をしている。監督自身も彼女なくしてこの映画の成功はありえなかったと言っているように、彼女の佇まいそのものがテーマを映しだす。
 メイジーの大きな瞳からは涙は流れない。メイジーがカメラを見つめるとき、観客はまるで何かを見透かされたような感覚を覚える。そして、メイジーの大きな瞳は、観なくてもいいものまで観てしまう。子供なのだから観なくていいはずのものを。
 この映画では、冒頭から目線の前にあるブランコだとか、電線に引っ掛かった凧の高さだとか、子供の目線で撮られた映像がインサートされ、それは観客自身の目線をメイジーに同化させていくことに繋がる。しかしながら、完全に同化させてはくれない。
 先のツイートのような、子供の目からみた美しい風景は、意外なほど早くカットが切り替わる。その代わりに移されるのは、メイジーの両親たちが言い争う姿。本当は自分にかまってほしいのに、そうはしてくれない姿。
 これは、本当は子供なのだから子供らしくすごせるはずが、周囲の環境によって子供らしく過ごすことができなかった女の子の話だ。それは、例えここまで機能不全の家庭でなくとも、「親がこっちを向いてくれなくて寂しい」という感覚を覚えた人なら共感できるはず。
 だから、裁判とか引越しの話はいつの間にか決まっている。子供はあくまでも急な環境の変化に振り回されるしかないのだから。しかし、この映画が恐ろしいのはそれだけじゃない。映画として映されるということは、単なる主観だけではない視点を持つことに繋がる。
 大人たちへの視点に橋渡しをしてくれるマーゴやリンカーンなどのキャラクターもいるけれども、こうやって映像で見せられると、確かにメイジーの両親はひどいし、親失格だとは思う。やっちゃいけないことをいくつもやっている。
 けれども、彼らだって本当はメイジーのことを構いたいのだ。けれども、社会との折り合いがつかないのだ、ということも、大人になった自分の目線からはわかってしまう。それでも社会が存続していくために子供を育てなくてはいけない。その事実に戦慄する。
 この構造はある意味で救いなのかもしれない。子供の視点と大人から子供を観る視点が共存したこの映画は、かつて寂しい思いをした自分の「子供」を、今の自分から見て、あの時はパパやママも辛かったのだと実感させることで自分の中の「子供」を泣きやませる。
 メイジーがほとんど泣かない分、大人の僕が泣いてしまったわけだけれども、⑨で書いたような役割を果たしているのではないかと思うからだ。ラストで過ごしたあの場所だって安穏の地ではないけれども、この映画の中で一番暖かい場所だった。

メイジーの瞳 [DVD]

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