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OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

村上春樹『女のいない男たち』(文芸春秋)


 なんて言うんだろう、今の村上春樹は「鬱期」にいるんじゃないか(本人が鬱かどうかは関係なく)。もっとも大きな違いは、かつて存在したユーモアが貼りを失っているような気がしたこと。

 この短編集には流行りの言葉でいう「NTR(寝取られ展開)」が頻出する。橋本治の短編集『夜』が夫の浮気について徹底して描いたものであり、それゆえに読み終えたころには気分が重くなったが、それに近いものを感じた。それで、前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(以下『多崎つくる』)を読んだ時にも感じたけれど、ここ2作には共通して「NTR」が登場する。正確には『ねじまき鳥クロニクル』にも出てくるし、『ノルウェイの森』だってキズキ視点で言えば「NTR」だし。

 それと、もうひとつ頻出するモチーフとして印象的だったのが「失踪」。元々村上春樹作品の登場人物は失踪することが多いけど、『多崎つくる』以降は「失踪」がもたらす悲劇的な感触を強調して描いているように感じる。つまり『羊をめぐる冒険』や『海辺のカフカ』的な「失踪」とは異なり、(これももともと頻出するモチーフだが)「理由も言わず目の前からいなくなってしまったこと」及び「それによってもたらされる内面の混乱」を重点的に描いているように感じた。これは『多崎つくる』の感想でも書こうと思った(結局書けなかった)ことだけれども、理由もなしに去られることは、その人が自分の過去から罪の入った箱をひっくり返して探さなくてはいけなくなり、それは非常に困難を伴う作業だ。できれば目を反らしたいものだから。けれども、文学というものはその「目をそらしたいもの」から目を反らすことができなかった者のためにあると思う。ただ、かつて『羊をめぐる冒険』を書いていたころに比べて、対象に飛び込んで帰ってくる体力も耐える体力も失われているように思えた。

 あと、元々槍玉にあがりやすかったけれども、あまり女性観や恋愛観が上等な人ではないので、表題作や「独立器官」のようにその気恥ずかしさが露になっている部分も見られた。ただ、「独立器官」はある種突き抜けていて個人的な好みでは好きではあるけれども。「NTR」を描く際に女性視点を織り込ませることは男性作家について困難な作業なのかも。ジャンルは違うけれど『恋の罪』なんかもそれに挑んでいた。ある意味、失敗を宿命づけられたテーマ。

 ただ、「ドライブ・マイ・カー」「イエスタデイ」等、ちょっとノスタルジックすぎかなと思う作品もある一方、「木野」を読むと、また村上春樹は「冒険」に出ようとしているのかなと思った。

女のいない男たち

女のいない男たち