OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

拡散された一族の恥~映画『物語る私たち』を観て~

 カナダの映画監督であり、女優でもあるサラ・ポーリーが自らの出生について描いたドキュメンタリー映画『物語る私たち』を観て、とにかくこの観たときに感じた快とも不快ともいえない感情について吐き出さなくては、そして他者と共有しなくてはと感じた。


 初めに言っておくと、この映画に関してフェアな批評が成立するとは思えない。
 サラ・ポーリーは彼女の母の不貞行為による出自について調査を行い、その結果を映画化した。そこには、おそらく数多くの葛藤があり、関係者に対する気の遠くなるような調整が行われただろう。そして、画面に映った状態のときには、すでにノーサイド状態にある。
 しかし、一枚皮をめくれば情念や修羅場が見えてくる。
 言うなれば、一族の恥の映画化。 

 
 これを自分に置き換えてみれば、僕の一家や一族における「恥」を全世界に向けて公表するということであり、まず自分でもそういったことが出来る勇気がない。仮にその作業を行うとしても、家族や親族の反対が起こることは必須だし、それを乗り越えるだけの気力はない。

 
 サラ・ポーリーの一家が芸能に縁があるからこそ『物語る私たち』は成立しているのかもしれない。
 ただ、だとすると、一族の不貞に関する映画を作成するその意欲自体について、ある種の狂気を感じてしまう。それが、一般人と芸術家を分け隔てるものなのかもしれない。

 
 この映画が作られる過程で確実に心を痛めている人間は存在するし、不幸になっているともいえる。それでも、真実を探求する心は止められないし、それはいずれ他者とも衝突する。それは避けられない。
 そう。ちょうど自分の欲望が他者と噛み合わないことを知りつつも、前者を優先させたダイアン・ポーリー(サラの母)のように。


 そのほかには、この映画はサラ・ポーリーの前作である劇映画『テイク・ディス・ワルツ』以上に娯楽物語的な構成がとられている。だから、非常に見やすい。けれども、描かれていることは深刻であり、仮に芸能一家でなくとも、夫婦として人生の終わりまで寄り添うということはどういうことなのか、考えざるを得ない。
 きっと一家の恥、一族の恥は家族の数だけ存在する。それについてどう対処していくか考える時、きっとこの映画のことが頭をよぎるのだ。
 なぜサラ・ポーリーがこの映画を撮り、全世界に向けて公開したかの答えもそこにある。それを必要としている人がいるから。

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