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OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

カマクラ買い出し紀行~映画『海街diary』感想

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※ 内容に触れています


2015/6/14・15@シネマQ

 漫画原作の映画作品に関する感想文の枕を、それとは別の漫画の話にしてしまう非を許してほしい。
 月刊アフタヌーン誌にて1994年から2006年にかけて連載されていた『ヨコハマ買い出し紀行』という漫画がある。

ヨコハマ買い出し紀行 1 新装版 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 新装版 (アフタヌーンKC)


 ジャンルとしてはいわゆるSFに当たるこの漫画は、いわゆる「黄昏の時代」の横浜を舞台に、喫茶店を営むアンドロイド、アルファさんとその周辺の人物をめぐる他愛もない日常を描いている。けれども、その他愛もない日常の外には、描かれていないけれども文明の衰退を感じるわけで、そこがこの漫画の独特の余韻を生んでいる。
 掲載誌もジャンルも異なるけれども、この漫画の連載終了とほぼ時期を同じくして吉田秋生の『海街diary』は連載を開始している。


 枕に置いたからには、この2作の共通点を挙げる必要がある。むろん、それはパクリと言っているわけではない。
 他愛もない日常を描いている点が共通している。半分正解。ただ、もうひとつそれに付け加えるならば、その日常を取り囲む世界は決して穏やかなものじゃないということ。


海街diary』は冒頭、長澤まさみ(演じる次女の香田佳乃)の生足から始まる。おそらく事後と思しき姿から始まるこの話は、長澤が電話を取り、その用事のため外に出たところでタイトルクレジットが出る。逢瀬の中断。
 その後、香田家の姉妹は父親の葬儀に出るため山形へ向かう。自然の風景が美しく切り取られた画面の中で喪服の黒が一種際立って見えるのは仕方ないが、ひとつどうしても気になってしまうのが、夏帆(演じる三女の香田千佳)が異常に大きい荷物を持っているということ。
 その後の展開を見ると、夏帆は一番「荷物を持っていない」人物に当たることがわかる。だからこそ物理的な荷物を持っていたのかという推測は可能だけれどもそれは一先ず置いといて、ただ、ここで荷物の大きさが観客の脳裏に刻まれる。
 遅れて合流した綾瀬はるか(演じる長女の香田幸)は、葬式会場で腹違いの妹すず(広瀬すず)に出会う。すずの義母が挨拶を押し付けようとしたところを綾瀬が守るという展開が素晴らしかった。ここで、全体的なテーマの一端が浮かびあがる。一先ずここでは、「親をはじめとする大人たちの勝手さに振り回された子供たちのお話」ということになるだろうか。
 葬式を終え鎌倉に帰る三姉妹を後ろから捉えた、シンメトリックな美しいショットがある。その後カメラが前に回った時、後ろから広瀬が駆けてくるのをピントが合わない時点から捉えている。ここで傍と気がつく。そうか、さっきの異様に美しいショットはすずの目から観たものだったのかと。
 そして、この物語が動く時が訪れる。電車に乗った綾瀬より「うちに来ない」と提案がなされる。広瀬は少し迷い、「行きます」と返事をする。そこでドアが閉まる。
 かように、この映画は美しいものを描きつつも、そこに割って入るものも描いている。それが、冒頭から数十分のシークエンスで示される。


 広瀬すずが鎌倉の香田家に越してきてから描かれるのは、確かに他愛のない日常だ。特にすずを巡るエピソードに関しては、梅酒を飲んで失敗したり*1、同学年の男の子に連れられて桜を見にいったり*2
 けれども、彼女たちを取り巻く環境は、決していいものだけじゃない。
 確かにこの映画には悪人は出てこない。話に出てくるだけの二ノ宮幸子(風吹ジュン)の弟は悪人と言ってもいいかもしれないけど、それこそ不倫をしている堤真一(演じる先輩医師)だって、封建的な女性の代表とも言える樹木希林(演じる大船のおばさん)だって、悪人ってわけじゃない。作品は異なるけど、『誰も知らない』で児童放棄を描いた際に母親役にYOUをキャスティングし、彼女を決して悪人としては描かなかった是枝裕和監督の描く世界は、そんな単純じゃない。
 これ、裏を返せば、悪人がだれ一人いなくたって不幸になることがあるってことでしょ? そういう現実は非常に酷薄じゃないだろうか。
 そして、時間の流れに善悪は存在しない。これ以上ないほど善人として描かれた二ノ宮に限って死が訪れる。
 彼女の財産整理を手伝った長澤が「神様に腹が立つ」とこぼし、それに応えて彼女の上司である加瀬亮(演じる坂下)は「神様がなにもしてくれないなら、俺達がどうにかしなきゃな」と答える。ここでテーマの拡充が図られる。


 すなわち、大人たちの事情に振り回される子供たち、というのは、そのまま、世界の仕組みとやらなんやらに振り回される我々の姿でもあり、我々は結局のところ大人になっても迷子なのかもしれない。
 

 映画も後半になって香田家は最大の来客を迎える。奇しくも、それはこの映画中で何回かくりかえされる法事の時であり、やはり彼女たちは喪服を着ている。
 この環境を作り出した元凶の一人でもある母親(大竹しのぶ)は、決して宿をともにしない。ただ、やはりその母親だって悪人ではないのだ。姉妹の暮らす家を売らないかという提案だって、彼女にしてみれば良かれと思った発言なのかもしれない。ただただ、誰も悪くない中で不幸になる者が生まれる。その事実が描かれる。
 彼女が来るのと前後して、香田家の中を映す時の照明が少し暗くなっているように感じた。それも、よく日本映画にありがちな光量の足りないぼんやりとした感じではなく、輪郭がくっきりと表れている印象。綾瀬はるか広瀬すずが台所でシーフードカレーを作っている時などアキ・カウリスマキの映画を見ているようだと感じた。この時に彼女は失言してしまう。
 この光の様子が、なんというか、彼女たちを外界から守るはずのこの家にさえやはり酷薄な現実は侵入してしまうのだという思いがする。


 後半に生まれた不協和音はそれぞれの形で一応の解決を迎える。「ずっとここにいていいんだよ」と。居場所を得た彼女たちは、けれども心のどこかでこの時間が永遠ではないことに気がついているのかもしれない。
 それならば、いつか壊れてしまう今ならば、せめてこの瞬間瞬間を輝かしいものにしよう。


 物語だけを取り出せば決してハッピーなばかりではないこの話だけれども、映像の美しさが際立っているのも、きっとそういう意図があってのことだ。
ヨコハマ買い出し紀行』における「ヨコハマ」だったり、この作品における「鎌倉」とは、つまり、アウトサイドに闇が広がっていることを自明の上で置いた聖域である。その聖域はふとした折に瓦解の予感を見せる。そういった、奇跡的に成立している聖域を描いた、素晴らしい映画だと思います。

*1:ここで家に梅の木があることに気がつく=少しだけ周りを見渡す余裕が生まれる

*2:ここで前田旺四郎の「時間ある?」という呼びかけに対する対応の様子が冒頭の綾瀬への答え方と呼応していて、彼女の環境への適応が観てとれる