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OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『自転車吐息』('89/監督:園子温)

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 青春映画の定義について考えた。僕ももう30過ぎのおっさんなので、さすがに今の自分が青春時代にあるとは思っていない。まあ、「青春」という言葉に少しの気恥ずかしさを込めて、青春が過ぎ去った者として考えるのは、すべての青春映画がそうだとは言わないが、多くの、また、僕がぐっとくる類の青春映画は「青春の終わり」映画だということ。


自転車吐息』('89/監督:園子温)は当時29歳の園子温ぴあフィルムフェスティバル助成金を得て製作した、彼のキャリアの中で初めてのオーバーグラウンドな映画だ。夜明けの名古屋の街などぐっと来る映像も多く、若干ストーリーが錯綜する部分もあるもののそれも含めて青春映画として上出来。


 この映画の主人公は物語の始まりから過去に縛られている。予備校でくすぶる男・北、演じるのは園子温監督自身。彼は物語の序盤から、高校時代に頓挫した自主制作映画に囚われている。
 この構造は後に彼が手がけたテレビドラマ『みんな!エスパーだよ』('13)にも引き継がれている。夢別名呪いに縛られ、一度は手放すも再度それを手にして立ち向かっていく様など、カメラが超能力に変わっただけだ。そして走る。
 最近、90年代のピンク映画をたくさん見ていて、この時代の空気のようなものが見えてきた。というよりも、ピンク映画なんてジャンルは存在しない。ただただ、時代と作家たちを分類する区分として存在するだけ。そんな便宜的に使われる「ピンク映画」について思ったことと園子温監督の『自転車吐息』について思ったことは少し共通する。
 つまりは、ピンク映画を見ているつもりで僕は「青春映画」を見ていたことであり、それは「青春の終わり映画」だったということ。


「青春映画」は「映画」である以上終わりが来る。それは映画の中で描かれた「青春」の終わりでもある。良い青春映画、というよりも、僕がぐっと来る青春映画はそのことに極めて自覚的である。どう自覚的かって言うと、劇中できちんとその「青春」の時期を振り返るポイントを設定している。それが脚本を作る技術としての「プロットポイントその2」だと言われたら返す言葉もないけど(よくわからない人は脚本についての本を読もう)、青春映画の主人公は一度すべてを失っている。
 それはなるべくなら人間関係を失うとか、ある時期の終焉を迎えるとか、なるべく自分がそれまでいた世界がなくなるくらいのものがいい。そして主人公は一人になる。孤独になる。その時に主人公は「あの時期は楽しかったよな」「あの冒険はよかったよな」「あいつ懐かしいな」と思い浮かべる。それから主人公が「青春」を取り戻すか、あるいは喪われた「青春」を受け入れていくかは物語によって違う。本当はどっちでもいいのかもしれない。僕らは歳を重ねていくごとに戻れない場所(ポイント・オブ・ノーリターン)に出くわし、そこを経過しては戻れないと知っていながら後ろを振り返ってばかりいるのだから。


 にしても、いい歳して「青春」という言葉を使うのは気恥ずかしい。かといって別の言葉に言いかえるのもまた「青春」的な気取り方がして恥ずかしいのだ。アオハルは痛々しい。

 SEISHUN NO OWARI


自転車吐息

自転車吐息