『西遊記~はじまりのはじまり~』('13/チャウ・シンチー)
日常で抱えている鬱憤と作品の発するメッセージが一致する瞬間がある。そういった瞬間のために僕は映画を見ている。
最近少し嫌なことがあった。「強い者」が自分より弱いと思い込んでいる相手を選んで喧嘩を売り、さらに強い者からの攻撃はうまくかわして世渡りしていくような瞬間を見た。この世に「ヒーロー」はいないのか、これだけヒーロー映画が溢れている現代なのにと、そう思っていた。
だから『西遊記~はじまりのはじまり~』('13/チャウ・シンチー)の主人公・玄奘(ウェン・ジャン)に、なぜか異常に引き寄せられてしまった。理想はあって、でも全然力が追いついてなくて、メソメソしている。もちろん、玄奘は観客が観ても不快じゃないようにバランスは考えられている。何しろイケメンだ。そして、皆がヒーローとはと語りたがるけど、ヒーローの素質というのもこの、ある種の「優しさ」にあるのではないか、とも思った。
そして、映画。いきなり『JAWS』('75)のようなホラー展開で始まるからジャンルが曖昧になる印象があるけど、僕はこれは青春映画だと感じた。ヒーロー映画で青春映画というと『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』('11)や『アメイジング・スパイダーマン2』('14)が近いのかもしれない。一体どういう要素に「青春」を感じたのか、以下に述べたい。
簡単に言えば「フォーマット」と「過剰さ」の両面において青春映画的だと感じた。
「フォーマット」すなわち物語としては、未熟な玄奘がいくつかの試練を超えて悟りを開き、旅に出るというものになっている。ここに出てくる妖怪たちはあまりにも残虐だし狡猾だ。それは、玄奘が自分の中に優しさを持ちつつも、それをもてあまし、あるいは甘さに足をとられて失敗する、そういった彼が触れる世界の厳しさを象徴している。
そういった根幹的な物語に絡むもう一つの軸として「ラブコメ」がある。妖怪ハンターの段(スー・チー)という、自分よりも腕っ節の強い女性に惚れられて狼狽するという、80年代の少年漫画によくありそうな設定である*1。
この成長物語的要素とラブコメ要素により、構造としては青春映画となっている。
そのフォーマットに「過剰さ」のパウダーが塗される。
物語の根幹には直接影響しないギャグ的な展開やおしゃべり。
ハリウッド映画なら絶対に死なないような人物まで死んでしまう凄惨さ。
沙悟浄にとどめを指す女性の体躯。
あきらかにCGだとわかるが故にフィクション性を担保するCGの使い方。
脇役にするにはもったいないくらいの濃いキャラクターの登場人物たち。
これらの「過剰さ」はサービス精神と言い換えてもいい。これらの要素により、好き嫌いはあれど、どうしても忘れられない時間が生まれる。
そしてそれは、妖怪王・孫悟空の登場により、さらに増す。
ハズシの方向で意表を突いた容姿の孫悟空の登場により映画はオフビートな方向に舵をとるのだが、悟空が豹変し、彼と他の映画ではまずお目にかかれないようなキャラクター達との一種マジックリアリズム的な対戦を経て、玄奘は自らの優しさと強さを両立する術を覚える。
そして、映画は宗教的な象徴へと展開する。
通常、宗教的メッセージが強すぎると構えてしまうものだけれども、ここではもうとにかく今まで見たこともない映像が展開されているという快楽が上回ってしまう。ほとんど『2001年宇宙の旅』('68)だ。
そして嵐が過ぎ去り、玄奘は三蔵法師となり、かつての敵を配下に添え天笠を目指す。砂の中にかつて愛し、失われた女性を見る。 それは彼にとっての過ぎ去った青春の象徴である。
そこで振りかえった時に、あの映画的過剰さが何とはなしに楽しかったような気がしてくるのだ。むろん、その時期を経て世界の濁まで自らに取り込み打ち克った彼には、その感傷に足をとられることはもはや許されない。
それは今の自分にとって一番必要なはずの成長だと改めて気付かされた。とても大事な映画のひとつになった。
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*1:演じているスー・チーは40歳近いけれどとてもキュート