OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『インサイド・ヘッド』('15/ピート・ドクター監督)

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 予告編を見たとき、これは「うつ」をテーマにした映画ではないのかと思っていた。さすがピクサー!踏み込むぜ!と思っていたら少し違った。
 おそらくは、だ。そう思った理由は、ライリーのパートの色調がかなり暗くなっていたからだろう。
 けれども、あの暗さは僕自身が悩み多い頃を思い出すには十分だった。未来が見えなくてドツボにはまって落ち込んで、でも少し心地いいあの空間が。


『インサイド・ヘッド』('15/ピート・ドクター監督)は大きく分けて二つの世界から成る。一つは主人公である11歳の少女・ライリーの頭の中の世界であり、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリの5人が中心になっている。正確に言えば、この頭の中の世界も、ヨロコビたちが普段いる司令塔と、そのほかの世界、例えば記憶の貯蔵庫であるとか性格を形成する島とか、複数の世界から成っている。このあたり、同じくピクサー製作のアニメ『トイ・ストーリー』('95)にも似ている。言わずと知れた名作。
 もう一つの世界は、ライリー自身の世界。人間界と言い換えてもいいだろう。ライリーが父親の仕事の都合でミネソタからサンフランシスコへ引っ越し、環境の変化にうまく適応できない様が描かれる。
 雑にあらすじをまとめていて思ったのだが、よくよく考えたら11歳の女の子が引っ越し先の環境変化に適応するまでの時期って、普通の映画なら十分もかからず語り終えてしまう。それを94分にまで引き延ばし、かつ観客を飽きさせていない。素晴らしい技術だ。
 あとはやはり色彩だろう。ヨロコビは黄色、カナシミは青といった具合にわかりやすい性格付けが色によってなされているのはもちろんだが、枕で触れたとおり人間パートの色彩の使い方もうまく、感情を乗せやすくなっている。
 映像的な冒険として、これまでのピクサー作品では、例えば『モンスターズ・インク』('02)におけるサリーの毛のふさふさや、『トイ・ストーリー3』('10)のごみ集積場におけるチップの数々など、細々とした物体が舞い散る様をアニメで描くことにより一種の映画的快楽、もしくはリアリティを担保してきた。この映画に置いて、それは記憶を貯蔵する球がそれに当たると思う。この球は他のピクサー映画に出てくるような細やかさこそないが、なんとなくこのごつごつした感じや重さを感じさせるところが良い。どこかでこの感じ味わったようなと思ったんだけど、1週間近く考えて気づいた。ああ、これは『ドラゴンボール』(鳥山明著/'85~'96)だ。だからこれだけすんなり冒険に入り込むことが出来たのだ、と。

 それで、感情たち自身はあくまでも「喜び」や「哀しみ」といった一側面を強調されたキャラクターとして存在するのだけれども、基本、それぞれはシンプルな行動原理を持っている。僕が、この映画についてすごいと思うところは、あくまでも単純化したフォーマットを用いることで、逆に感情の襞の複雑さが露になることだ。
 途中、「創造の館」と言われる場所に入り、ライリーたちは単純化され二次元、色と形だけ、などに変化してしまう。見ていて『ウゴウゴルーガ』(’92~’94に放送されていた子供番組)みたいだと思ったのだけれど、これはギャグ演出というだけでなく、この映画は単純化された構図を使って複雑なものを描くという宣言みたいなものじゃないだろうか。
 この映画の中で経過した時間はライリーの人生の中で言えばほんの一瞬みたいなものだ。だ、その間にはこれだけ複雑な内面が展開されている。それを、子供にとってもわかりやすいようにシンプルな導入でもって説明している。


 さて、この物語が面白いのは「普遍性」。つまりは、まあ、基本設定に乗れなかった人以外はおそらくは自分に置き換えて考えてしまうだろうなということ。
 ある程度大人になった人にとって、カナシミの役割はだいたいわかる。それは共感能力なのだと。
 ライリーの母親のインサイド・ヘッドではカナシミが主導を握っていたわけだけれども、それはつまり、彼女が他者への共感を第一に考える生き方を選んだということに他ならない。
 さて、ここからは映画本体についての話から離れる。
 カナシミは他者への共感能力を司る。僕も、おそらくは過去の哀しい経験があったから他者に対して共感できているという思いはある。
 この映画はライリーが思春期を迎える前で終わっている。子供時代からの脱却であり、他者に共感すること、つまりは利他的な行動を覚えるその第一歩だ。
 で、おそらくは思春期までは大丈夫。けれども、おそらく人は生きていて、カナシミに足をとられること、つまりは、他者への共感では片付かない、綺麗事ではすまないことにも直面する。
 つまりは、競争社会において、他者を蹴落とすような局面が発生するということ。僕は今までにカナシミが仕事をしていないような人に何人も会ってきた。
 だから、ふと思ってしまうのだ。もしこれから先、この映画がシリーズを続けるとしたらそれはとても複雑なものになるだろうと。
 ひょっとすると「心の病」を描かなくてはいけなくなるかもしれない。それは確実に子供向け娯楽映画という屋台骨を揺るがすものになる。
 さすがにそこまでは行かないかもしれない。でも、本音を言えばその先が見たい。