OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『セッション』('14/デイミアン・チャゼル)

f:id:otsurourevue:20150815182812j:plain:w250
 音楽は「音を楽しむ」ものだとよく言われる。当然英語圏の映画でこの言いまわしが出てくることはない。けれども、ある程度歳をとると、その言葉が欺瞞ではないかとさえ思えてくる。少なくともプロにとっては。ひょっとするとそこまで競争的に思えない音楽ですら僕たちが見えないところで修羅場を潜っているのではないかとか、そんな感覚がよぎる。星野源が練習中にシンバルを投げつけたりしているかも、と。それは冗談としてもこんなことに考えを巡らせてしまうのは、年齢を重ねるごとにそれなりに仕事関係で修羅場をくぐってきたことが影響しているのかもしれない。

『セッション』('14/デイミアン・チャゼル)は簡単に言えばジャズを題材にとった『冷たい熱帯魚』('10/園子温)のような話。
 名門音楽学校にてドラムを学ぶニーマン(マイルズ・テラー)はある日フレッチャー(J・K・シモンズ)に引き抜かれ学校でもトップクラスの楽団に入るが、そこでは演者への人格否定まで含む罵詈雑言、連帯責任を伴う遅くまでの練習等を含む過酷な試練が待ち構えていた。
 上映時間の107分間一時も退屈することがなく、間違いなく面白い映画であることは間違いないが、ただこの面白さが映画そのものによるものなのか、はたまた音楽によるものなのかは判別がつかない。多分後者の要素が大きいため、保守的な映画ファンには嫌われるかもなと思った。でも、午前2時まで練習をして外に出た時の奇妙な路面の光り方等はフィルム・ノワールを思い起こさせた。

 さて、フレッチャーである。
 枕でも書いたことを発展させると、フレッチャーとは、音楽に携わる者が、それがビジネスだったり、あるいは観客の視点が介入する段階だったり、そういった妥協できない状況に追い込まれた状況を具現化したものではないかと思うのだ。それはもちろん、商業性を持つ音楽につきものだと思う。
 で、これは音楽に限らず、仕事や学問などある種求道的な性格を持つ事象にはついてまわるものだ。
 だからこそ言いたい。フレッチャーには気をつけろ。

 フレッチャーのような鬼教官キャラがスクリーンに登場するのは初めてではない。おそらく、多くの者が思い浮かべるのは『フルメタル・ジャケット』('87)のハートマン軍曹だろう。けれども、フレッチャーの指導方針は人格否定におよぶ点を除きハートマン軍曹には似ていない、というよりも達していないと言った方が正確か。そもそも、戦争という極限状態における指導法と音楽における指導法を同列に考えることは出来ない。あるいは、だ。フレッチャーは『フルメタル・ジャケット』を観て指導方法に取り入れた彼のフォロワーにすぎないのかもしれない。
 なぜこんな印象を受けるかというと、どうもこのフレッチャーという人物には小物感が漂うからだ。だから、むしろ近い人物は『冷たい熱帯魚』の村田じゃないかと思うのだ。
 ここまで書いて、なぜこんなにフレッチャーに対して辛口な言説をとっているんだろうと思った。これは、僕が映画というある程度の客観性を担保したメディアを通して彼を知ったから言えることであって、多分だけど、直にフレッチャーに会ったら彼に言いように踊らされて、そして潰されていたかもしれない。そういう恐怖がある。
 もちろん、フレッチャーだって名門校で教鞭を奮っているのだからまったく能力がないわけじゃないだろう。けれども、彼の指導方法に具体性が欠けているところ、あとは物語の終盤で彼自身が見せる楽器の演奏が決して技術的には上ではないところ、これらは映画を観る限り指摘できる。
 ただ、この映画における最悪の邂逅がここにあると思っている。ニーマンの凡人で終わりたくないという焦り、自分の才能への自身のなさと、その裏返しとしての攻撃的な態度。それがフレッチャーのスパルタな指導方針と出会った結果、ニーマンは(一度)潰れる。
 この流れは僕にも覚えがある。自分の才能に自身がない時には、何か物凄く断言するような物言いに憧れてしまうこと、心酔してしまうことがある。そしてそれは今でも例外ではない。ある種の一定の評価を得ている映画についてバッサリ否定するような物言いに、反感を覚えつつも惹かれる傾向が、今の僕にも時折ある。落ち着いて考えたら、そういった厳しい物言いが芸術的な価値と連結しているわけではない。ただ、その表面的な要素に騙されてしまうのだ。
 
 かつての教え子が死んだことを嘆くフレッチャーを観て、ニーマン、あるいはニーマンと視点が一体化した観客は、彼の中に人間性を見る。しかし、その後明らかになる事実を知って、フレッチャーへの評価は動く。
 この映画が音楽映画である以上にサスペンスであるのはここで、ニーマンや観客はフレッチャーという人物をめぐる評価について映画の上映時間中常に揺れ動いている。映画が終わった後もずっと揺れ動いている自分みたいな観客も、いる。
 そして宣伝で映画史に残るラスト9分と言われているのは、決して誇大表現ではない。今年の映画でこれ以上の高揚感は味わえないのではと思ったくらいだ。ただ、これが映画の作用なのか音楽の作用なのかは少し迷うところだ。
 そして思うのだ。映画としてのカタルシスを感じると同時に、ひょっとするとニーマンにとっての本当の地獄はここからじゃないかって。フレッチャーの言ってたことのすべてが間違いとは限らない。が、本当に音楽に、そして芸術に触れるということは、地獄の連続じゃないかって、そんな気さえしてくるのである。
 
 自分のことで言えば、確かに受験や仕事など、ある種の厳しい指導を越えてそれなりの成果を出せたという自負は、今までの経験を振り返ると、ある。けれども、その厳しい言葉を与えてくれた人に対して、未だに素直に感謝する気持ちになれない。もっと他にやりようがなかったのかとか、俺ならもっとうまくやるとか、そんなことを考えてしまう。
 そして、自分が指導する側に回った時に、確かに自分の中に「フレッチャー」的な部分があることもわかるのだ。