OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『心が叫びたがってるんだ。』と健全さ

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 時たま、作品についてdisられているのがまるで自分のことのように感じられることがある。それは、自分でその作品を好きだと思っているかどうかに限らない。好きではあるけどdisられても痛くも痒くもない作品もあるし、はっきり言ってしまえば今回取り上げる映画よりもすぐれた作品は今年だけでもいっぱいある。
 思えば、同じ監督が過去に作ったテレビシリーズに出てきた女の子にもそういった感情を抱いた。

『心が叫びたがってるんだ。』(2015)(以下『ここさけ』と表記)はこれまで『とらドラ!』('08~'09)、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』('11)などを手掛けてきた長井龍雲監督が映画としては初めて、テレビシリーズの劇場版ではなく最初からオリジナルの企画として出されたものであり、ノスタルジアを過剰と言ってもいいほど刺激する画や、少々クサくて気恥ずかしい感はあるものの切実な思春期の悩みなどを、その破綻も含めて見事に映画化している。泣いた。
 なにより見事だと思ったのは、本来なら「セリフで心情を説明する」というのは映画としてマイナスポイントになりそうなところが、主人公の置かれた境遇による象徴化の結果、逆に効果を挙げていることだ。主人公の成瀬順(CV:水瀬いのり)は言葉をほとんど発せず身振り手振りやメールで自分の意思表示をするという『たまもの』('04)の林由美香のようなキャラクターなのだけれども、その背景には過去に父親の不倫をそうとは知らず母に話してしまったことがきっかけで家庭崩壊を招いたため、言葉を発することが出来なくなったという過去がある。おそらく成瀬ほど極端でないまでも舌禍により人を傷つけてしまった過去に苦しむ経験を持つ人は少なくないだろう。だから彼女は普遍性のあるキャラクターになっているわけだし、彼女が言葉を発するということが「思いは口に出さなくては伝わらない」というテーマと同じベクトルを向いた運動になりエモーションに繋がっていく。欲を言えば、内面の声などもっと抑えたほうがよかったが、さすがにそれは声優さん泣かせか。

 そして、この「思い」が他者に伝播していくことにより作品が出来上がるというのも「アニメ」ひいては創作全般に繋がっているように思う。ここで、『ブレックファストクラブ』('85)のように、クラスでも違うグループに属する者たちがボランティア活動のために集まるという舞台立てが良い効果を上げている。
 実のところ、いわゆる「萌えアニメ」に抵抗がある人にまでその壁を越えて訴えかける力のある作品だとまでは思わない。ただ、抵抗がない人にとっては「ノスタルジア」を究極的なまでに象徴化した画面、それは光の具合だったり、まるで大林宣彦の映画のようなロケーションだったりするのだが、それによって「こんなにキラキラした経験なかったはずなのに・・・!」という具合に涙腺を刺激されるはず。


 で、だ。今述べてきたように、この映画の欠点も承知と言えば承知のはずなのに、なぜかこの映画をdisられると自分をdisられているような気分になる。
 その理由を考えた時に、同じく今年公開されたアニメ映画で、こちらは今一はまれなかった『バケモノの子』('15)と比較すると、おぼろげながら見えてきた。
 細田守監督も素晴らしいとは思う。ただ、長井監督も細田監督も、どちらも「健全」な作家だとは思う。
 だが、『バケモノの子』で少し見えてきた。細田守監督のは、「強者の健全さ」なのではないかということ。それゆえに、「健全」を押し付ける感覚が少し目立ってきたのではないか。
 つまるところ、『ここさけ』に感じたのは、それに対比された「弱者の健全さ」ではないかということ。実のところ、過去作品においてこの「弱者の健全さ」をもっとも担っていたのは『とらドラ!』の櫛枝実乃里ではないかと思う。
 この記事にも書いたのだけれども、今改めて論じなおすなら、櫛枝というキャラクターは、周囲への度を越した同調のあまり「道化」になったキャラクターと言える。それはすなわち、周囲の求める「健全さ」に応えたということであり、だから終盤の、高須への思いを昇華するための啖呵はあまりにも健全で、それゆえ悲しい。そしてある残酷な事実がここで浮かび上がる。健全さと恋愛感情は相性が良くないということ。
 で、まあ。自分が健全だという気はさらさらないけれど、でも誰かが健全さを担わなくてはいけない
局面にあって、自分の意志とは裏腹に健全さを担って、結果的に貧乏くじを引いたという過去は、ある。
 そしてそれは、「弱者の健全さ」は『ここさけ』の登場人物にも引き継がれている。あるいは、この作品の立ち位置自体が、「健全さを不器用なかたちで引き受けた」かたちになっており、それはいかにも気恥ずかしいタイトルやポスターアートにも表れている。
 だからなのかもしれない。『ここさけ』が批判される際、当然ながらこの映画の登場人物に対する批判も出てくるけど、そういったものを聴くたびに苛立ってしまうのは、「おまえらがそうやって健全さを押し付けた挙句、その健全さを批判するから、狂ってしまったんじゃないのか」と、僕の心が叫んでいるからだ。
 で、僕もいい加減30超えたオッサンなので、結局のところ批判する人とはわかりあえないことも知っている。これは選民意識でもなんでもなく、ただ経験から思うことだ。いずれにせよ、僕は彼らの「叫び」を肯定したい。

(追記) 僕のようなオッサンにとっては担任の城嶋(CV:藤原啓治)が癒しだった。彼が居なかったらこの映画の中に居場所はなかったかもしれない。