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OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『恋人たち』

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「ひとつ言わせてくれ。希望は危険だ。希望は人を狂わせる。」(『ショーシャンクの空に』)


 例えば、苛々することがあって独り言をわめいている時に「まるでアツシだな」と思う。あるいは、忙しいのかどうかは知らないが自分の用事がほっておかれて苛立っている時に「四ノ宮のような状況だな」と思う。
 橋口亮輔監督の7年ぶりの長編映画『恋人たち』('15)はかように日常に入り込んでくる映画だった。映画を観て何日も経っていないがそれを実感している。


 この映画の登場人物たちはみな誰かに話を聞いてもらいたがっている。けれども、話は常にそらされ、うやむやにされる。
 例えば、妻を3年前に通り魔事件で失った男・アツシ(篠原篤)は、自らの境遇について語る。三年前に妻を失い、仕事を失い、弁護士に相談したが「こういう世間だから仕方がない」と言われたことを。このくだりは二度出てくる。一度目は市役所に年金について相談した時に。二度目は仕事の同僚に対して。
 なぜほぼ同じような台詞を繰り返すのか。おそらくはアツシは脳内で何度もこの文章をリフレインしている。今いる状況がどれだけひどいかを誰かに聞いてもらうために。


 救済は他者がその人の話に耳を傾けることで得られる。それは、橋口監督の過去作において繰り返し用いられてきたモチーフだ。しかし、この映画には先がある。最もひどい境遇にある者に救済が与えられ、日常に戻る、めでたしめでたし、で私たちを帰してはくれない。彼らならうまくやってくれるだろう、と他人事にさせてはくれない。


 通常の映画、あるいは従来の橋口作品なら、感情の吐露をきっかけに解決する、あるいは、すべてはうまくいく予感を残して終わるだろう。けれども、この映画における最大の感情の吐露は、誰も耳を傾ける者がいない場所で行われる。瞳子の独白を聴くはずだった人物はすでに不覚に陥り、四ノ宮の独白を聴くはずだった人物は電話を切り、そしてアツシの独白を聴くはずだった人物はこの世にいない。
 では誰が聴くのか?
 三者三様の独白が行われる直前のシーンにおいてアツシの顔に暴力的なズームアップが行われたのは、カメラが観客の首根っこを掴んで聴くように促したからに他ならない。そう。スクリーンの前の私たちが聴くほかない。


 だからこそ、この映画のラストが、今までの映画に比べて安易に希望という言葉で片付けてしまいたくなかったのだ。そう片付けてしまうこと、この世界の土台が壊れていることを知っている人物に対して、ポジティヴの布を被せてしまうこと。あるいは、正論の刀で断ち切ってしまうこと。それはこの映画の中のリリー・フランキー山中崇になってしまうことだ。
 それだって決して間違ってはいない。彼らだってこの世界が正気を失っていることに気づいているはずだ。おそらくは彼らは絶望の処世術を選んだ。話を聞いたら相手の持っているものを負わなくてはならない。それを避けることこそが上手に生きる知恵だと。
 そして、負わなくてはいけない何かは希望を持ったものの肩にのしかかる。アツシも瞳子も、希望に足をとられ、何度裏切られても期待してしまうから苦しむ。四ノ宮は、おそらくは絶望の処世術をとっていたが足を踏み外してしまった。そして、希望を観てしまった。


 自分で書いていて、つくづく嫌になる世の中だと思う。こんな世界で生きているかと思うとぞっとするよ。
 それでも、この映画は私にとって救済になる部分は確かにあった。冒頭で触れた、日常の瞬間でこの映画を感じることは決して不快ではなく、むしろ自分の苛立ちに対して少し楽になるような部分があった。そう感じた時に、私の話を聴いてくれた誰かがいたのかもしれない。

Usual life (Special Ver)