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OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

『溺れるナイフ』

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山戸結希監督『溺れるナイフ』('16)を観たときに感じたものを正直に申せば、それは疎外感だ。
例えば、長回しの多様に相米慎二の影響だとか、アフレコの使い方に神代辰巳の影響だとか、土着性の描き方に柳町光男の影響だとかを指摘することはできるかもしれない。(あと、今作では控えめだけれども詩的・文学的な台詞の多様には寺山修司の影響だとか)
けれども、そういった映画史的なマップのどこに位置するかを指摘すればするほど、大きなものを語りきっていないような気がしてくる。
もうだいたいわかっている。
この映画が自分の胸を貫きそうで貫かなかったのは、僕がオッサンだからということを。


しかし、なぜこの映画がオッサンに向けられたものじゃないと思うのか。
それは、この映画が描いている3つの要素による。
この映画は、いや、本当はこの映画に限らず、山戸監督の映画は女子高生を主人公にとっている。その中の女子高生はつまり、女で、若く、美しい。
そしてオッサンは、男で、年寄りで、醜い。

や、それでも待ってよ。例えば今年に公開された映画でも『ちはやふる』なんかはオッサンの胸にも響くじゃないか。いったい何の違いがあるのさ。
確かにあの映画の広瀬すずも女で若くて美しい。そしてそのことは映画の中でも肯定されている。

つまりは、『溺れるナイフ』に限らず山戸作品では、女であることも、若いことも、ひいては美しいことも決して安易に肯定はされない。そしてその度合いは、山戸監督にとってシネコンとの接点となるこの映画でさえ徹底している。

まず女であることについてだけれども、そもそも山戸作品には根底にはミサンドリー(男性嫌悪)があるんじゃないかという位、思慮に欠けた男性が登場する。この映画に置いても、大友勝利(重岡大毅)を除いては土台が揺さぶられるほどに頼りないほどに弱い男性が描かれる。そして、それらの男性らの衆目に晒され、性の対象として見られ、時には実際の被害に遭う可能性もあるという女性の受難。
オッサンとしては当然見ていて、自分が男性であること自体が断罪されている気分には、なる。

次に若さについて。山戸作品に共通するモチーフであり、近年だと『桐島、部活やめるってよ』などにも近いテーマである、限定された場所における同調圧力と、そこから抜け出すこと。ただ、山戸作品における「抜け出すこと」は実のところそこまで爽快感があるわけではない。残された者(その多くは抜け出した者に対して批判的である)は変わらないし、抜け出した者が幸福になったかどうかも描かれない。『溺れるナイフ』に至っては、抜け出す者である小松菜奈について、明確に本人のイタさ、視野狭窄、そして自身の過ちなどを強調するような描かれ方をする。
それらの過ちを担保するのが「若さ」という可能性が拡げられているからこその期間であり、それが閉じられたオッサンは、残された者、残された場所を守り続けていかなくてはならない者として、自分を否定された感覚には、まあ、なる。

余談だけれども、主人公と三角関係に陥る二人の男について、コウちなん(菅田将暉)は奔放で、土地に縛られているが、一方で本人自体はアイデンティティーの喪失の危機に遭遇するほど脆い。一方で、大友勝利は、アイデンティティーは揺らがないほど強かだが、土地には縛られていない。この土地を脱しようとするヒロインにとって、前者は後者に比べて不都合しかないはずなのに、結局はそっちを選んでしまうという。この非合理性は非合理性のまま、説明はされない。だからこそ引っかかっているのかもしれない。

最後に、美しさについて。
山戸結希監督がメジャーに進出して以降にカメラを向けたのは、美しい者たちだった。
今思えば、東京女子流というアイドルグループのグループ内格差を物語にメタ的に落とし込んだような『5つ数えれば君の夢』なんかはとても残酷な話だった。そして、この映画の中で志摩遼平が演じる写真家の男が撮る映画も、相当残酷だ。
それでね、じゃあ新井ひとみ小松菜奈が美しいんだからアイドル映画としてその美しさに耽溺すればいいじゃんと言うかもしれない。菅田将暉だって確実に美しく撮られているし。
けれども、不思議なことに、この映画を観ていて僕が感じたのは、美しさに対する嫉妬だった。
菅田将暉に嫉妬するのはまだわかる。本当は嫉妬なんておこがましい位彼と僕の間には果てしない距離がある。けれども、僕はあまつさえ小松菜奈に対してすら嫉妬を覚えた。小松菜奈がそのスタイルの良さを画面に刻むたびに、まるで白雪姫を妬む継母のような気分になった。
僕はこの感情の正体がわからない。ひょっとすると山戸監督が美しさにカメラを向ける理由は嫉妬からくるものなのか。それにいつの間にか同化していたからなのか。美しい者に対抗意識を燃やす感情なんて忘れていた。自分がオッサンであり醜いことは認めていたつもりだったから。


山戸監督が、女、若さ、美しさという反オッサン的な基準をフィルムに焼き付けているのはおそらく間違いないだろう。僕が感じた居心地の悪さは、そこに自分の居場所がないことを知りつつ、居場所を作ろうともがいていた頃を思い出したからなのかもしれない。