『散歩する侵略者』
劇団イキウメの舞台およびこれを原作とした前川知大の小説を原作とした黒沢清の長編映画。日本公開を基準に考えると前作『ダゲレオタイプの女』('16)より10か月ぶりとなる。
誰かが言った。この映画は黒沢清らしくない。またある人は言った。この映画には黒沢清成分が詰まっている。
少なくとも、ことツイッター上において、黒沢清以上に演出的な特徴をネタにされる監督はいないのではないだろうか。誰もが東京オリンピックの開会式をすることを期待し、炎上した石鹸のコマーシャルと黒沢清演出の相似性を指摘した。
僕はと言えば、『リアル~完全なる首長竜の日』(’13)以降、つまり原作のある映画を撮りだして以降の黒沢清作品では一番面白いと感じた。
それというのも、原作のストーリーテリングがしっかりしているというのもあるだろう。それゆえ、ふつうの映画という印象を持つ人が多いのもわかる。
けれども、一見ふつうであるからこそ、黒沢清成分が入ってきたときにぎょっとする感覚、これが僕にはほかの映画では得られない体験だと感じた。
まずね、やっぱり巧いんですよ、黒沢清は。松田龍平を連れて逃げる長澤まさみが追手に気づくシーンでそれまで単なる通行人だった人々が「追手」になるその瞬間の描き方とか、やはり巧い。
あと、世界の滅亡を描いたのも久々だった。下手したら『回路』('01)以来じゃない。この荒廃した世界の描き方は、長谷川博巳がつけているサングラスに引きずられたこともあってジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』('87)を連想した。そして『ゼイリブ』から80年代の映画の暗さが30年の時を経てよみがえっているような感触も覚えた。松田龍平の空虚な器としての人物像は否が応でも『CURE』(’97)の萩原聖人を連想させるし、こういった過去の黒沢作品のセルフオマージュ的な部分がストレートに響く感じも『リアル』以降だともっとも広く行き渡る感じがあった。
とはいえ、良い話にギアを振り切らないための黒沢清的な不穏さの演出は健在で、このあたりが評価が分かれている部分なのかもとおもったり。
???「良い映画である。この映画が黒沢清映画ということに目をつぶればの話だが」