OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

奇跡の海

1996年製作。デンマーク
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
エミリー・ワトソン(ベス)、ステラン・スカルスゲールド(ヤン)、カトリン・カートリッジ(ドド)、ジャン・マルク・バール(テリー)、エイドリアン・ローリンズ(リチャードソン医師)、ジョナサン・ハケット(神父)、サンドラ・ヴォー(母親)、ウド・キアー(男)、ミッケル・ゴープ(ピッツ)、ローフ・ラガス(ピム)、フィル・マッコール(祖父)、サラ・グッジョン(シビラ)

 粗筋は、お互いの異常とも思われるほどの溺愛っぷりで結婚したベスとヤンだったが、ヤンが油田で事故にあってしまい、半身不随となってしまう。ヤンはベスに、他の男と関係を持ち、そのこと詳細に自分に話すよう強要するが…、というもの。
 大学に入ったばっかりのころ、美術学の研究室へ見学に行ったことがあって、それで、そこにいらっしゃった、外見的にはベンゾーさんっていう先輩がいて、確か好きな芸術作品は何かとか聞かれたと思う。僕は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と大島弓子って答えた。するとベンゾーさんは「同じ作者の『奇跡の海』っ映画も観た方がいいよ。ラストでギャグになる」とおっしゃった。ベンゾーさんは元気かな。あれから3年経ったから、もう社会人になってらっしゃるのかもしれないが。
 そして今年の初めに英語の授業で先生が「奇跡の海」をいい映画だとおっしゃっていたので見ることにした。
 ただ、159分はさすがに長いので「五章 疑惑」で区切って二回に分けて、観た。
 まず、ヨーロッパ特有の曇り空の持つ沈んだ空気の描写がいい意味でうつにさせてくれた。それで、ここに描かれるベスっていうのは、仕事としては家事手伝いに近く、わりと社会のはずれ者としての要素が強いわけ。また、ベスの神への信仰心から出たものかわからない二重人格を如実にしめす「主」との対話は恐怖感すら感じさせる。この「主」との対話は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でいえばミュージカルシーンのようなものかもしれない。
 ヤンも肉体労働者だし、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマも工場で働いていたことを考えると、ラース・フォン・トリアー監督の描きたいテーマというのは、ほの暗い場所で生きる人々の悲劇と、その合間にちょっとだけ感じる喜び、見たいな物なのかなと思った。ただ、その喜びを得るための犠牲は大きすぎる。見ている側からすると、どうしてそれくらいの悲劇回避できないのなんて思ってしまう。基本的にこの監督の登場人物が遭遇する悲劇は自業自得だからだ。しかも、登場人物が最後に救済を得て精神的な面でのハッピーエンドなんてことも許さない。この手法って、残酷な御伽噺によく使われる手法でのあるんだけど、果たしてこの作品から「信仰は無意味だ」などという無味乾燥な教訓が引き出せるだろうか?また、そうでなくても「差別はいけない」などという、いかにも教訓的な教訓を引き出すのも違うと感じた。よくわからないけど、観念の世界で生きることにはリスクも伴うが、それでも救われることはあるんじゃないのか(断定はできない)っていうことが主題ではないかと思った。
ダンサー・イン・ザ・ダーク』に比べると演出も控えめなので想像力を要する作品だ。
87/100