OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

シークレット・サンシャイン('07/イ・チャンドン)

2011/7/5鑑賞

DVD



 これは「赦し」をめぐる物語だ。

 僕はこの映画を観るちょっと前に、ポール・トーマス・アンダーソン監督の『マグノリア』(’99)という映画を観た。
 こちらも「赦し」がテーマとなっている。
 
 私たちは普段の生活において、他者から迷惑をかけられたり責任を押しつけられたりする。
 それがとてつもなく理不尽なケースで発生した場合、果たして私たちはその相手を赦すことができるのか。
マグノリア』で描かれるケースは、例えば父親が自分の愉しみを優先して家庭を蔑ろにしてしまったとか、クイズ番組において天才少年だと期待を押しつけられたが故に自分のやりたいことを押し込めてしまっただとか、確かに理不尽ではあるけれど、十分私たちにも起こりうる範囲で描かれる。
 彼らは最終的には「赦し」の方向へと進む。ここで重要なのは、その「赦し」を与えるきっかけが決して迷惑をかけられた他者の変化によるものではなく、あくまでも自分の内面的成長によって促されることだ。
 許さないでいることは自分のエナジーを食い潰す。幸せな一生を送るためにはそれがどんなに理不尽であっても自分の方から「赦す」ことが大切だ。それはすなわち自分自身を「赦す」ことにほかならないのだから。
 これが、『マグノリア』のテーマだ。

 一方、『シークレット・サンシャイン』に関して、おそらく主人公が置かれた不幸はそう簡単には私たちの生活に降りかかることはないだろう。
 そのはずだった。しかし、現在の私たちは理解しえないほどの理不尽な不幸がいつだって降りかかりうることを知ってしまった。3月11日以降には。
シークレット・サンシャイン』の主人公はその理解しえない不幸に対する救済として宗教を選ぶ。そして一時は救われたかに見えた。
 しかし、宗教が持つ根本的な矛盾によって、彼女はさらに理不尽な不幸に見舞われる。そして神に対して反抗的な行為をとっていく。

シークレット・サンシャイン』で描かれるテーマも「赦し」をめぐるものであるが、これは簡単には理解しえない不幸が起こっても、それでも「赦す」ことができるか、というところがキーとなる。
 宗教がもたらす「救い」には一種の思考停止の側面が含まれる。実際に、他者に対する祈りにも、祈る側の自己満足といえなくもない。
 特に『シークレット〜』で描かれる不幸はそう簡単に癒せるものではない。じっさい、この映画でも明確な答えが描かれるわけではない。

 しかしながら、やはり「赦し」を促すのは自己の内面的変化によるものなのだ。そしてそこに力強いわけではないし、決して理解してくれることはないかもしれないが、理解しようと努めてくれる他者がいればなおいい。


 私自身が『マグノリア』や『シークレットサンシャイン』に描かれた結末を100パーセント受け入れられるわけではないが、時間をかけて消化していきたいと思う。

シークレット・サンシャイン [DVD]

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