エッセンシャル・キリング
2011/12/16鑑賞
@桜坂劇場Aホール
イエジー・スコリモフスキ監督作品。
映画ファン同士で通じる冗談に、「ありとあらゆる映画にスティーヴン・セガールを登場させて台無しにさせる妄想」というのがある。
スティーヴン・セガールは鋼の肉体を持つアクション俳優の代名詞みたいなもの。つまり、アクション俳優の肉体と一般人の肉体の間には線引きが存在するということを、この言説は暗に示している。
『エッセンシャル・キリング』のあらすじを簡潔に言うと、おそらくはアフガンゲリラと思しき人物であるヴィンセント・ギャロが小規模なテロを起こした後に雪原の中を逃げまどうだけの話ということになる。
しかしながら、実際にスクリーンに映し出されているものはそれだけに留まらない。もっと複雑なものがあるように感じた。
まず、表面上はアクション映画に見える。しかしながら、ここで逃げまどうヴィンセント・ギャロの肉体はアクション俳優のそれではない。すなわち、彼は凶器で攻撃を受けたら確実にダメージを受け死ぬ可能性もあるし、ピンチにおいて機転を利かせて逃げることもできない。
お話においても、ギャロがなぜ敵対しているのかとか、そもそも敵対している組織は何なのかとか、ギャロはどこに逃げようとしているのかだとか、そういった本来の物語の目的は類推はできるもののほとんど描かれないと言ってもいい。
そういった、アクション映画のエンターテイメント性を抜き、代わりに大自然のダイナミズムだとか、ギャロの野性性を発揮するサバイバル場面などを導入したのが本作と言ってもいい。
前半ではもちろん敵対組織との逃走劇という非常にシンプルな物語がクリフハンガー的に観客の興味を持続させる。一方で、吹雪の場面や木が倒れる場面など、自然のダイナミズムを相当の迫力でスクリーンに刻みつけている。
あと、ギャロの背景として描かれる、時折挿入されるイスラム教的なイメージシーン。イスラム教って、他の宗教に比べ明らかに取り扱いがデリケートなものであるためか、非常に緊張感を増す役割を果たしていたように思う。正直に言えば、このイメージシーンの持つ意味は僕の教養では太刀打ちできないのだけれども。
さて、後半に行くにつれて、追手の持つ意味すらなくなっていく。イスラム教のイメージシーンは増える。
難解さを増していくようにも感じられるが、逃げる意味すら変わってもひたすら逃げなくてはいけない苦しみみたいなものは、誰しもが感じることができると思う。
そして、後半にこの物語の唯一の救いが登場する。
ここ、同じくヴィンセント・ギャロ主演作の『バッファロー’66』を連想させた。
(以下ネタバレ)
『バッファロー’66』は、早い話が今まで誰からも愛されなかったギャロが、ありのままの自分を愛してくれる無垢な少女に出会って救われるお話だ。
『エッセンシャル・キリング』にも、少女というには歳はいっているものの、失語症という少なくとも「言葉」から解放されているというわかりやすい「無垢」ポイントを持った女性が登場し、唯一ギャロを救う存在となる。
しかしながら、ギャロはイスラム教の「聖戦(ジハード)」的な思想に染まっており、彼の手も血に染まっている。
だから、彼を許してくれる存在が現れたからといって、彼の犯した罪が赦されたわけではない。
前述の通り、この物語においてギャロはどこに逃げるのかはっきりしない。だから、彼が逃げおおせるとすればどこになるのか、あるいは逃げきれないのか、そして、逃げるという行為が意味するところはいったい何なのかとか、そういったことが観客の興味の対象として途中からシフトチェンジする(彼を追う対象が微妙に変わってきていることに注目してほしい)。
僕は彼が逃げる意味についてはまだはっきりとは理解できないのだけれども、最後のシーンが意味するのはやはり彼の禊(それは彼が意識するしないにかかわらず)だと思った。
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