OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

魔法少女まどか☆マギカ


2011/12/20〜12/24鑑賞

DVD



 あちこちで話題になっていた作品。遅ればせながら。


 まず、題名に「魔法少女」と銘打たれているいっぽうで、シャフトという癖のあるアニメ制作会社の、新房昭彦という癖のある監督さんに加え、(僕はこの作品で初めて知ったのだけれども)虚淵玄という癖のあるシナリオライター。さらに、なぜか癖のない蒼樹うめがキャラクターデザインという、このアンバランスさがどのような反応を起こしているのか気になっていた。


 はじめに。僕は以前に『けいおん!』の感想で以下のように書いた。

「さて、愛でるに値するキャラクターを生み出すものはなにか?ひとつは、ストーリーの流れにおいてそのキャラクターの高潔さを見せること、もうひとつは、細やかな描写を積み重ねることで視聴者にそのキャラクターに対する近しい感情を想起させること。
けいおん!』における手法は後者だ。」

魔法少女まどか☆マギカ』における手法は、前者である。



 序盤はそんなに乗れなかった。
 新房監督の作風というのが、無節操な引用を明らかに情報許容量を超えて詰め込み、そこに一種のドラッグ的快楽を促すといった手法で、『ぱにぽにだっしゅ!』(’05)で頂点を極めていた感があったものの、近年は徐々に絵から情報量を減らしつつある傾向が見えた。
 そして、『まどかマギカ』では、無駄なものを注ぎ落したようなシンプルな画作りが顕著で、新局面であるとはいえ、若干退屈なものを感じた。
 あちこちで話題になった第3話も、すでにあのキャラクターがああなることは聞いていたこともあって、わりと流す感じだった。
 個人的に衝撃的だったのは第6話だ。何ていうか、視聴者が心のどこかに持っていた違和感であり、かつ「そうなるとやだなあ・・・」と思っていたものを明確に前に出してきたという点で実に挑戦的だと感じた。
 あと、このあたりの話で感じたキュゥべえの怖さは素晴らしかった。自分たちの論理が通じないものに感じる恐怖がうまく表現されていた。
 極めつけは第10話。伏線回収的な気持ちよさもさることながら、あるキャラクターへの「誤解」や「違和感」(それはまどかをはじめとするキャラクターが持っていたものであり、視聴者はそれを共有していた)が彼女の視点から描かれることで、そのキャラクターの真意を知り、彼女の高潔さを知ることになるという、実に巧みな脚本。僕はこの回でそのキャラクターにこれ以上ないくらいのアタッチメントを持ちました。


 しかしながら、こういった脚本というのは本来映画などのメディアに向いているものなんです。なぜかというと、映画なら一度代金を支払ってしまえば余程の事があって途中退場しない限り、どれだけ退屈でも観続けざるを得ない。だからこそこの展開を用いることもできる。いっぽう、アニメはいつでも視聴を「切る」ことができる。特に近年のアニメファンは容赦がない。いくらあとで謎が明かされることによる快感が待っているとはいえ、きちんとその回その回で楽しませてくれなければ「切られる」。
 それを防いでいたのは、もちろん謎をめぐるフックもあるけれども、美樹さやか佐倉杏子ラインのお話である。
 
 ただ、個人的には鹿目まどか暁美ほむらラインのストーリーに比べ、さやか―杏子ラインのストーリーは若干説得力がなかったように思う。
 さやかの抱えているものと杏子の抱えているものは(僕には)異質なものであるように思え、どうしても作劇上の都合を越えられなかった。
 さやか―杏子ラインは本来的にはまどか―ほむらラインのシャドウなので、もし劇場版でリブートされる際にはかなりカットされる可能性が高いように思う。



 さて、ラストの2話。詳しくはネタバレになるので、わかる人ならニヤリと来るたとえでいうと、
 『2001年宇宙の旅』(アーサー・C・クラーク
  からの
 『たったひとつの冴えたやり方』(ジェイムズ・ティプトリー・Jr.)
 的な展開になる。
 このあたりの壮大さは、きちんとSF的な理論づけを行っていて好感が持てたけれども、どうしても映像表現の限界を感じてしまった。たぶん、文章で読んだ方が面白いんだろうなと思えた。とはいえ、僕は最後にあるキャラクターが選びとった「たったひとつの冴えた」決断に号泣してしまったわけだけれども。


 ここは一種のメタフィクションであり、例えば『天元突破グレンラガン』(’07)の後半の展開のように、今までのアニメの約束事を踏まえたうえでの総括にも思えた。ただ、『グレンラガン』の場合はその荒唐無稽さが説得力を削いでいたけれども、『まどかマギカ』はきちんと作品内での着地が上手く行っていた。
 言うなればこれは、アニメーションのお約束が成り立つために必ず語られるべきお話だったと思う。



(余談)
『たったひとつの冴えたやり方』はもともとTV版『新世紀エヴァンゲリオン』(’95−’96)の最終話につけられる予定のタイトルであり(実際には「『世界の中心でアイをさけんだけもの』になった)、『涼宮ハルヒの消失』(’10)のラストで長門有希が読んでいた本でもある。この十数年のアニメに与えた影響の大きさを今回改めて感じた。