OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

メランコリア(★★★☆☆)


2012/3/4鑑賞

@サザンプレックス



 ラース・フォン・トリアーは『奇跡の海』('97)、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』('01)、そして『アンチクライスト』('09)しか見たことのない状態。
 トリアー映画をシネコンで観る機会など二度と訪れないと思い鑑賞。

 自分が観た範囲だとちょうどアメリカ三部作(『ドッグヴィル』など)が抜けているのではっきりとしたことは言えないのだけれども、ラース・フォン・トリアーの作風と言うのは、どれだけ外の世界がひどいものだろうと、内的世界が豊かなればそれは幸せなのではなかろうかという問いかけのように思える。そして、『奇跡の海』および『ダンサー・インザ・ダーク』は主人公の視点に寄り添い内的世界を視覚化することでそのメッセージを伝えてきた。



 だが、近作においては観客の視点を主人公からあえて外しにかかっているように思う。


 それくらい、この映像を観ていて、どの登場人物にも共感し得ないのだ。

 これはおそらく編集によるところが大きい。例えば、登場人物の表情を長めに映すことで観客にその時の心情を読みとらせるとか、そういった映画的手法を拒否しているかのように思える。前作『アンチクライスト』はまだ極端な暴力表現により、映画に参加させられている気分になったが、こちらではその要素も排除されている。性的表現は存在するものの後退気味。僕の汲み取り方が浅いからなのかもしれないが。


 それでも、『アンチクライスト』の妻(シャルロット・ゲンスブール)や、本作のジャスティン(キルスティン・ダンスト)など、狂気の淵に堕ちたキャラクターが登場しても、なぜかあちこちで言われているような気分がめいるような感触は覚えなかった。周囲の無理解についての描写が少なかったからかもしれない。

 

※以下ネタバレ

 第一章では、キスルティン・ダンスト演じるジャスティンが、自らの結婚式を破壊するさまが描かれる。ジャスティンがそうする理由は明確ではない。あれだけ周囲の人から寵愛を受けているにも関わらず、なぜそんなことをするのか、という印象を抱く。だが、これは「うつ」というものには理由もなく囚われてしまうのだということを表現しているのかもしれない。それこそ、惑星メランコリアが地球に衝突するのに理由などないように。
 第二章では、惑星メランコリアの接近に伴い、ジャスティンの妹クレア(シャルロット・ゲンスブール)が混乱して行くさまが描かれる。うつ病で身の回りのことが何もできなくなったジャスティンに対応し、通常なら常識人として描かれるはずのクレアだが、やはり夫に関する顛末を見る限り、彼女も正常とは言えない。
 つまりは、この映画は「信用できない語り手」問題が発生している。

 第二章の様子を見てちょっと黒沢清監督の『回路』('02)を連想した。基本的にこの映画内ではジャスティンとクレアの周囲の人々しか描かれず、外界から遮断された印象を受ける。そこが似ているのかも。



 序盤のワーグナーに乗せて極端なスローモーションで描かれる美しい情景は、きっとこの映画のダイジェスト的役割があるのだろう。
 ラストの衝突は音響も含めまさに映画館で体験すべきものだった。