金星('11/早川嗣)
2012/8/4鑑賞
DVD
2011年公開のインディーズ映画。監督は早川嗣。twitterで助監督の方をフォローしていて興味を持ったので鑑賞。
非常に素晴らしい作品だったと思います。インディーズ映画は大作映画と異なりギミックで勝負できないため映画の基本的な部分で勝負する必要がある。物語が動く時や登場人物の感情が不安定になった時にカメラを動かすこと、登場人物の心情を表情や声色から読み取らせること、必要な場所に必要な人物が配置されていること、そういった演出の基本を押さえており、緊張感が常に漂っていたように思います。最後まで飽きませんでした。
あらすじは、視覚障碍者の俊が比較的軽度の視覚障碍者(ただし顔にやけどのあざをもつ)であるほのかを誘い、介助者としてヘルパーの聡子とその兄雄二と共にピクニックに出かける。
その先で、ほのかが大学生からある心ない扱いを受けたことから、さまざまな隠れていた本音が噴出するというもの。
ぼくがこの映画を観たときに、思い出したことがある。
高校生の頃、全身に障害を持った方の車いすを押したことがある。目的地まで行った後にその方から言われたのが、「帰るための交通費がないのでお金を貸してください」。その時の所持金が千円しかない旨を告げると、「じゃあ、それでいいです。」と言われた。
そんな自分にとって、中盤の俊と大学生の口論(と言えるほどのものかはわからないが)のシーンは非常に興味深かった。
確かに障碍者は、それ自体で保護に値する存在だ。
ただし、だからと言ってなんでも許されるわけではない。
序盤のシーンから、俊は何か不穏なものを観客に提供する。
彼の落ち着きのない動きや、明らかに物事を他人のせいにする言動は、明らかに観客に不快感を与える。と同時に、私たちは彼が障碍者ということをどうしても切り離して考えられない。
そのような葛藤をかかえた観客にとって、大学生が反撃を加えるシーンは本来ならカタルシスになるはずだ。
けれども、ぼくはここで言い返された時、なんだろう?すごく自分のことを言われているようであまり愉快な気持ちにならなかったのを覚えている。
障碍者という設定は一見極端だが、例えばレイモンド・カーヴァーの小説「大聖堂」ですべてを見通す存在として盲人が出てきたように、欠如によりある種のメッセージを浮き彫りにする力があると思う。そして、そのメッセージは普遍性を持つ。
要するに、俊が体現しているのは、私たちが周囲の人に対して持つ「甘え」である。
この「甘え」の克服のために、短い映画の中で3度もの試練を用意する。
自分の中にも「俊」がいるからこそ、この物語から目が離せなかった。
ぼくは未だにラストの解釈がつかめていない。
彼の身に起こったことと、彼の成し得た行動との因果関係がよくつかめないのだ。
だが、この飛躍が、物語の投げかけるメッセージを観客に持ち帰らせているのではないかと思った。
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