OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

ベティ・ブルー 愛と激情の日々('86/ジャン=ジャック・ベネックス)


 ベティブルーが好きな女には気をつけて(byミル姉さん


 去年の夏に『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』('86)の完全リマスター版が上映されるということで観に行った。それから今日にいたるまで、かれこれ4回は見直している。日々のふとした瞬間に思い出されることもある。間違いなくオールタイムベスト級の作品だ。個人的には、これと『オアシス』('02)があれば恋愛映画は観なくていいとさえ思う。



 なんでそう思うかというと、どちらも恋愛のもつ「共依存」の側面を描いているから。これは恋愛の持つ最大の負の側面だ。これを描いていない恋愛映画はすべて欺瞞といっていいい。また、この「共依存」によって助けられる魂があることも事実だ。

 で、『オアシス』もこちらもそうなんだけれども、時折リアリティを無視するようなシーンが出てくる。



 この映画は冒頭からアメリカのインディペンデント映画チャンネルとNerne.comが2007年に発表したThe 50 greatest Sex Scenes in Cinema の6位に選ばれたことで有名なシーンが出てくる。みうらじゅん先生の言葉を借りると「これ絶対入ってるよね」というような、なんかすごいリアルな。



 シーンが切り替わりゾルグ(ジャン=ユーグ・アングラード)演じる主人公がトラックを運転しているシーンになる。なぜ奇声をあげているのか。なぜチリをコンロにかけたまま外出しているのか。そして彼はその後チリを鍋から直接食すのだが、その時に口ずさんでいる歌。あれはそのままこの映画のBGMになっている。つまり、映画と私たちを分けるラインの上にあるはずのメロディをなぜ彼が口ずさむことができるのか(これは有名な曲のアレンジではなく、ガブリエル・ヤールによる映画音楽だったはず)。

 つまり、こういった感じで一事が万事、なにかがおかしいというシーンの連続なんです。

 個人的には後半にベティ(ベアトリス・ダル)が、おしおきとしてシャワーのひっかける部分につるされた息子を助けて、「三人の魔女の話をしてあげるからね」と言ったところがピークだと思った。



 ちなみに、この映画は1987年に日本で公開された時は大幅にカットされたバージョンで、これが『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』というタイトルがついている。その後、1992年に、カットされた10シーン中9シーンが追加され、上映時間も1時間近く追加され実に179分というランタイムになった『ベティ・ブルー インテグラル』として再度公開されている。

 見比べてみると、追加されたシーンのほとんどがゾルグのエピソードである。特に、ゾルグが自分を酷評した評論家に脅しをかける場面や、女装して銀行強盗をするシーンなど、ゾルグ側の狂気を感じさせるエピソードも多く、確かに最初『愛と激情の日々』を観た時はここは理解に混乱をきたしたなという気がする。

 するのだが、こういった混乱を伴う映画体験もこの映画には似つかわしいような気がするのだ。



 さて、この映画の解釈について思うところを述べたい。大幅にネタバレを含みます。



 要はこの映画、ゾルグは最後、精神に異常をきたし精神病院に隔離されたベティを窒息させ、息を止める。

 ゾルグの行動は弁護に足るものではない。この行動によってベティがスクリーンの中で永遠の存在になったとしても、だ。

 

 それで、ひょっとしてこういうことではないかと思った。

 要はこの話、「糟糠の妻を得て表現を掴んだはいいが、それとともに彼女の束縛がつらくなった男がひどい別れ方をした」というのが裏の物語として流れているのではないか。

 実際問題、世話女房タイプの人は芸術家にとって確かにインスピレーションの素になると同時に、相手をひとりの自立した存在として扱ってくれないことで相手にとってのアイデンティティを脅かす存在になることは往々にしてある。

 だから、ラストであの行動をとらせたことは、極端な行動をとらせることで自らに悪を集中させるマゾヒスティックな罪悪感の昇華行為であり、かつベティ(のモデルになったであろう女性)への贖罪の念から来たものなのかもしれない。この映画の持つメタ構造を暗示しているのが、冒頭で歌を口ずさむ行為なんじゃないかと思いますね。

 そんな映画を好きだと感じてしまう俺って・・・とは思う。



 だが、これだけオシャレ映画と言われていながら、実はものすごく生々しくて、そして決して欺瞞ではなく恋愛の真実の一端を描いているから、ぼくは惹かれてしまうわけですよ。