OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

相対性の彼方~水曜日のカンパネラ『私を鬼ヶ島に連れてって』~

 思えばロックを聴かなくなった。
 中学・高校・大学とロックを聴いてきた人間がそれを聴かなくなるというのは、ひとえに青春の終わりを意味するとも言えるわけで、そら確かに焦りはある。
 ここでロックとわたくしとばかりに自分史を一席講じても良いのだが、その語りを始めた段階で人は加齢臭がしてくるものだと知っている。
 ただ、自分のロック史を顧みてみるに、その最後に位置するのは相対性理論だった。

 誰かアーティストを心酔し、彼らのインタビューを読み、彼らの音楽のルーツを漁る。そういった聴き方を最後にしたのが、相対性理論だった。
 当時はすでにロックへの興味も薄れ始め、アニメに興味は傾いていた。今となってはどちらに対しても誠実な観客ではなくなってしまった。ただ、2009年の頭に聴いた彼らの音楽は、ロックとアニメという、自分にとって大きな影響を受けた表現が高い次元で融合しているように思えた。

 正直に言って、未だに自分にとって相対性理論より先が見つけられていないのかもしれない。評判があまり芳しくない2013年のアルバム『TOWN AGE』も自分にとっては文句のつけようのない内容だったし。
 けれども、ふと思うのだ。このアルバムが、もし水曜日のカンパネラのようだったら、誰からも文句はなかったんじゃないかって。

 水曜日のカンパネラと相対性理論が似ているという気は毛頭ない。彼らの間に音楽的相関性があるのかも知らない。上記のようき考えたのは、相対性理論はおそらくジャンプすることが期待されていただろうから。

 二者の共通項を導き出すなら、少し昔(それは90年代であり、1984年生まれの自分にとっては思い入れのある時代)の文化的固有名詞をさしたる思想もなさげに歌詞に取り入れ、コケティッシュな女性ボーカルで歌っていることだろうか。ただ、相対性理論The Smiths直系のギターポップがOSであるのに対し、水曜日のカンパネラのOSはHIP HOPやユーロビートであるという違いはある。

 彼らの音楽にもうひとつ共通する事象があるとすれば、歌に切り取られた部分の背景に、物語を感じさせることかもしれない。
 水曜日のカンパネラのミニアルバム『私を鬼ヶ島に連れてって』の一曲目は「千利休」。歴史的茶道の名家を主人公にとってラップをやらせている。そこには、利休が茶道シーンを盛り上げてきた物語があり、それをヒップホップ史における抗争に準えて笑いを誘っている。
 二曲目「桃太郎」で童話上の登場人物と90年代にはやったハドソンのゲームの主人公を一致させる試みや三曲目「エンゲル」におけるリストアップから導き出される心地よいダメ人間っぷりもそうだし、七曲目「ジャンヌダルク」など歌詞自体が物語と言ってもいいだろう。物語性の薄い「デーメーテール」や「チャイコフスキー」、「インカ」も、高級になりすぎないトラックがちょうどいいBGM感を出している。

 けれども。多分個人的に相対性理論よりはまるかどうか怪しいのはなぜだろう。『私を鬼ヶ島に連れてって』は相対性理論の『シフォン主義』をちょっと連想させるんだけど、相対性理論にとっての「おはようオーパーツ」を連想させる「チャイコフスキー」や「インカ」の無国籍感が、うまく言えないけど、足りないと思う。それはひょっとするとやくしまるえつことコム・アイの声質の違いなのかも。

私を鬼ヶ島に連れてって

私を鬼ヶ島に連れてって