さや侍(★★☆☆☆)
2011/6/12鑑賞
@ミハマ7プレックス
刀を抜かない侍(野見さん)とその娘の交流。
まずさ、野見さんに主体がないんだよね。
だから、刀を抜かなくなったことも、三十日の業に挑むこともなし崩し的な感じがして、主体的にコミットメントしていったという気がしない。
ので、娘との関係修復に説得力がなくなっている。
ひょっとすると、三十日の業に関して野見さんが巻き込まれていく様に一種の面白さを感じるべきなのかもしれないが・・・。
個人的には、やはり三十日の業に関しては笑えない。
思うに、野見さんはちょっとペーソスが強すぎる。
むかし読んだ中島らもの短編で、普段冗談ばっかり言っている落語家が実はすごい真面目な性格で、っていうのがあった。陣内孝則さん主演でドラマ化もされていた。
むしろさあ、こういうのって『ライフ・イズ・ビューティフル』的に普段軽口ばかり叩いている男が三十日の業を通して自らの(笑いに向き合うという筋立てのほうが、ラストに向っても盛り上がると思うんだけどな。
この物語で根幹になるのが、野見さんが最後に殿様に情けをかけられたことで武士としての誇りを取り戻し、切腹するという筋立て。
最初さ、三十日の業って暗にレッドカーペットやイロモネアみたいなインスタントコント隆盛のお笑いブームを揶揄しているのかと思ったわけ。
後半はウリナリに端を発する感動バラエティ路線かな?
で、この三十日の業を通して、一人の芸人が成りあがっていく様を寓話的に描いているのだと気付いた。
つまり、段々その才能が認められているのはいいが、次第にお客さんは何をやっても笑うようになる。
彼ら彼女らの口をふさぐために真剣なことをやってみせる。
これは確かに松本人志がやる意味はあったと思う。
けれども、そのあとちょっとお涙ちょうだい的な締め方をしているせいで、本意は伝わりにくくなっているじゃないかな。
まっちゃんは「わかる人にだけわかればええ」というかもしれないけど・・・。
そもそもこのメッセージ(誤読かもしれないけど)自体がどうかなと思うところがあってさ。
改めて申し立てたいのは、果たして本当に松本人志は天才だったのか?ということ。
まっちゃんがフリートークの返しなどで頭の回転のずばぬけた速さをみせるのは周知の通りだし、コントなどにも発想に非凡なものは感じる。
けれども、彼の著書を読んでいる限り、彼は自分は他の人と違うとか、そういったことを強調している節がある。
このあたり、彼は実はフェイクなんじゃないかと思うゆえんである。
本当の天才というのは、自分のやっていることは普通の事だと思っているんじゃないかという風に思うわけで。
だから本当は、松本人志は天才監督のもとで役者の経験を積むべきだったと思う。
こういった彼の自己顕示欲の強さ(あるいはプライドの高さ)を顧みるとね。
前述のメッセージの話に戻ると、これはつまり自分の笑いが通じなくなったのを観客に責任転嫁しているようにも思えてくるわけ。
おまけにさ、結局このメッセージってコップの中の嵐にすぎなくね?とか思ってしまってさ。
より抽象化してアーティスト全員にあてはめることができるようにするには、圧倒的に描写が足りていないため、こういった卑小な受け取り方しかできない感じがある。
とはいえ、現在の笑いを取り巻く状況に観客に責任がないわけではないことも確かなので、このメッセージを発した意味はあると思います。