月の輝く夜に('88/ノーマン・ジュイソン)
恋愛の身も蓋もない真実
シェールとニコラス・ケイジ主演のラブコメディ。午前十時の映画祭にて鑑賞。
午前十時の映画祭に入っている作品の中では、他の作品に比べいささか軽い印象のあるこの作品。製作も1987年とわりあい最近。なぜこの作品が入ったかはいささか疑問ではあるのだが楽しく見ることができた。あとニコラス・ケイジの登場がものすごく遅かった。
正直に言うと前半は眠くなった。シェールのキャラクターにも感情移入できなかったし。
ただ、ニコラス・ケイジ登場以降面白くなっていった感じがある。
要はこのお話、「浮気」を巡る問いかけである。主人公の母が繰り返し発する「なぜ男は新しい女を求めるのか?」という問。しかし、物語を進めるのが若い世代に位置するシェールの浮気である。ここは「女性にだって浮気願望はある」といったことを示しているのか?
ただ、ぼくが印象に残ったのはこういったこと。
この物語で恋愛を成就させるのは、自らの欲望に忠実だった者だ。
まず、基本的なあらすじが、結婚のために自らが本当に欲するものを抑え妥協してきたシェールが、ニコラス・ケイジに出会い本当の欲望に気づくまでのお話ということになる。
これはぼく自身にあったことなのだが、ぼくが所属していたサークルで結構かわいめな女の子がある男にアプローチをしかけていた。口を開けば彼のことばかり。本当に周りが見えない状態だった。
男というものは隙あらばハーレムを作りたいと思っているものなので当然面白くなかった。その後ぼくはその女の子にひどいことを言ってしまったせいで絶交してしまう。
あのとき、なんであんなにひどいことを言ってしまったのか、自分で逡巡してみたのだが、これはおそらく、ぼくが恋愛に限らず欲望を素直に表明するということができないため、自分の欲望に素直なその女の子がうらやましくもありねたましくもあったのだろう。
閑話休題。『月の輝く夜に』に限らず、恋愛映画というものはえてして主人公たち二人が恋にのぼせ、周りが見えなくなっている状態に陥っている姿を描く。
彼ら彼女らは、自らの欲望に忠実になっている、もしくは近い将来なることは間違いない。
だが、自らの欲望に忠実になるということは、とある集団の和を乱すことにもつながるし、時には周囲の人に迷惑をかける。
この映画で、シェールの婚約者であり、母親の介護に行っている間に弟すなわちニコラス・ケイジにシェールを寝取られてしまうロニーという男がいる。
彼は、母親が回復しその後も介護を続ける必要があったがために、シェールとの婚約を破棄しなくてはいけなくなる。
この映画の世界では、浮気より母親から自立できていないことのほうが罪なのだ。
時として愛は倫理を超えてしまう。自らの欲望に忠実というのはそういうことだ。
ここ、おそらく日本人には呑みこみづらいと思う。というか、ぼくだって呑みこめない。
ただ、いくら親不孝で金がなくとも、欲望に忠実で自由に生きているニコラス・ケイジのほうがロニーより恋愛という土俵では魅力的なのだ。
恋愛映画を観ると否が応でもその事実に気づかされる。
この考え方がどうかは別として、ぼくはそれを欺瞞に包んでいない時点でこの映画は誠実だと思う。