OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

恋のロンドン狂騒曲(★★★★☆)

倫敦どんより 晴れたら巴里


2013/2/9鑑賞
桜坂劇場

 ウディ・アレン監督41作目。
 この3作くらいはどうにか劇場で観れてます。

 結論から言うと、この映画でウディ・アレンは恋愛、もしくはそれを初めとする人間の欲望を極限まで肥大させて描くことでひとつの教訓たりえる段階まで達させたのかな?

 この映画の登場人物は、恋愛にしろ、セックスにしろ、ビジネスにしろ、大なり小なり自分の欲望にしか興味がない。現実ならこういったエゴイストの近くに、我の強くない人がいて緩衝材になることが多いのだけれども、ここではそれすらありえない。だから、欲望と欲望が衝突して、結果、とんでもないことが起きる。
 それは、「欲張り過ぎてはいけない」という教訓にもなる。ただ、同時に「自分の欲望を押さえつけることが果たして正解なのか?」とも考えさせられる。
 例えば、ある人物がジムにおいて結婚しているある女性に対してアプローチをしかける場面があるのね。この時の彼の眼は「おれはあんたとセックスしたい」と雄弁に物語っている。しかも、彼はそれが拒絶されるなんて思っていない。自分に自信があって、セックスしたいと考えること、またはそれを相手に知られることを恥ずかしいなんて思っていないから。
 で、まあ実はこの人物、この映画の中で適当な罰を受けているわけじゃない。

 よくよく考えたら、ウディ・アレンの映画の中で罰を受ける人物とそうでない人物、それは『ウディ・アレンの重罪と軽罪』('89)という映画に如実に示されていたけど、その違いは要は「罪悪感の量」によって決められる。

 つまりは、欲望の行使にあたって少しでも罪悪感がある者はその欲望によってしっぺ返しを食らう。それがアレンの教訓なのかもしれない。

 じゃあどうすりゃいいのさ!と普段から罪悪感にとらわれやすいぼくは思ってしまうのだけれども、その答えを見つけるためにウディ・アレンの映画を見続けるのかもしれないな。


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