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OKINAWA MOVIE LIFE

沖縄(宮古島)在住の映画好き。ツイッターは@otsurourevue

桐島、部活やめるってよ(★★★★★)


2012/10/7鑑賞

桜坂劇場

 いきなり個人的な経験になるが、高校の卒業式の日、典型的な目立たない生徒だった女子が、射撃の全国大会で優勝するほどの腕前だったということが表彰されたことで判明し、生徒たちがざわついた記憶がある。

 おそらく、スクールカーストを打ち破った瞬間だったと言える。


 話題作だった『桐島、部活やめるってよ』は沖縄では2カ月遅れでの公開。2か月なんて短いものだと思っていたが、よく考えれば評論が出そろうには十分な時期だ。今までシャットダウンしてきた情報にやっと接することができる。


 吉田大八監督の映画はデビュー作から全部劇場で観ている。

 そのなかで浮かび上がった作家性は以下の通り。

 演出における作家性として、エモーションが頂点に達した時にリアルを飛び越すこと。それは『腑抜けども、哀しみの愛をみせろ』におけるマンガ的表現だったり、『クヒオ大佐』における映像とナレーションの差異だったり、『パーマネント野ばら』においてある真相が明かされる瞬間だったりする。

 テーマにおける作家性として、本物になれない者の持つ悲哀が描かれる。『腑抜け〜』においては女優を目指しつつも才能の欠如した姉、『クヒオ〜』は主人公そのものであり、また彼に惹かれる女性のうちひとりにそのテーマが向けられる。『パーマネント〜』もそうかもしれない。

 また、これは『パーマネント野ばら』から目立ってきたのだが、とにかくあの映画の田舎描写がリアルだった。こういった、中心ではない場所の表現が巧い人だと思う。


 さて、今回の映画。物語の幕を開けたときから高校時代のあの空気が蘇ってくる。

 日本映画でこの感覚を味わったのはいつぶりだろう。

 そして、この映画もやはり吉田監督のテーマの延長線上にあると思うのだ。


※以下ネタバレ


 実は難解な作品かもしれない。

 例えば、過去3作はニセ者を描いているけれども、その対比として、本物に近い人物を配置していたわけです。

 しかしながら、『パーマネント〜』ではその本物に当たる人物の影は薄く、ひたすらニセ者が寄り集まった状況で、それでも生きるしかないという悲哀を描く方向にシフトしたのではないかと思います。

 そして、この映画ではついに本物に当たる人物が姿を消したように思えます。


 私は思うのだけれども、この「本物」に当たる人物こそが桐島だったのではないかと。


 金曜日に桐島が部活をやめるという噂が広まり、登場人物は動揺する。それはつまり、彼らが信じてきたものが裏切られたように感じたから。


 この映画は神の視点をとっていて、さまざまな人物の目線が描かれるけれども、それでも肝心なことを知ることはできない。桐島が不在である理由などその最たるものだ。


 だから、ひょっとするとヒロキは桐島とひと悶着あったのかもしれないし、風助が本物になれないという憤りはどれほどのものかわからない。橋本愛演じるかすみの内面だってわからない。


 さて、これまでの吉田作品でニセ者だった人物はどうしてきたか?

『腑抜け〜』では本物を追従した。『クヒオ〜』では妄想の世界に逃げ込んだ。そして、『パーマネント〜』ではその中間地点に立っていたように思う。つまり、リアルを生きるか妄想に生きるかを曖昧にして。


 では、本来桐島から最も遠い、すなわち「本物」から最も遠い存在であり、主人公である前田はどうしたか?あるいは、吹奏楽部部長の亜矢(大後寿々花)はどうしたか?


 このふたりは、学校内の存在感によってステータスが付けられるという現状を、恋愛というフィルターを通してまざまざと見せつけられた。しかしながら、このふたりがたとえば互いの胸を内をさらけ出しあい理解しあうという場面は、直接的には描かれない。ちょっと『サウダーヂ』っぽくもあるのだけれども。つまり、ここで理解し合わないことで、この映画に解りやすい出口を作らないようにしている。


 彼らが選んだのは、自らの表現を完遂することだった。それが、互いに伺い知らぬところで相乗効果を上げ、ひとつの素晴らしい表現を生んでいる。ここは非常に感動的な部分であり、かつリアルと折り合いの付けられないものが空想に逃げ込むシーンでもある。


 しかしながら、結末はちょっとビターだ。確かに、桐島に近いある人物から認められたことは救いかもしれない。だが、現状は何も変わっていないのだから。


 ここで私は思うのだけれども、この映画は神の視点であり、桐島の視点から描いた映画じゃないのだろうか?だから、最後電話のベルが切れても何も聞こえないのは、それを聞いているのがほかならぬ桐島だからじゃないのだろうか?


 最後の表現は確かに神に、桐島に届いたんじゃないのか?

 それが、この映画に残された希望だと思いました。