『1999年の夏休み』('88/金子修介)
髪がピンクの少女に出会ったのは人生のエアポケットの時期だった。
と、書くとなにやら怪しいロリータ小説でも始まりそうだが、なんのことはない。人生の中で少々落ち込んでいた時期に『少女革命ウテナ』('97/幾原邦彦)を観て感銘を受けたということだ。
決してリアルタイムで出会ったわけじゃない。そもそも沖縄なので、果たして東京テレビ系列で放映されていたこのアニメが放送される地域に入っていたのかどうか知らない。ただ、明らかに他のアニメとは違う色遣い、象徴的なアイテムの数々は雄弁に何かを語ってくれたが、未だに理解できていないのかもしれない。ただただ、ウテナにやられていた。
『1999年の夏休み』('88/金子修介)を見てこのアニメを思い出したのもむべなるかな。隠されてはいるが萩尾望都の漫画『トーマの心臓』を原作とするこの映画は、ヘッセの『ダミアン』から引用した台詞などウテナと共通する点も多く、また、ウテナに負けず劣らず変な作品だった。あらすじは、冒頭のナレーションで語られる情報を信頼する限り少し未来の話。夏休みが始まり寄宿舎に残った3人の男子生徒のもとに、数ヶ月前に崖から転落したはずの少年によく似た少年がやってくる。
この映画の変わったところをまず挙げるなら、劇中では少年とされている人物を少女と言っても差し支えない年齢の女優が演じているところだろう。その中には若き日の深津絵里もいる。
そのほかにもいくつも変わったところはある。未来の話のはずなのに登場するガジェットが古風な印象を受けること。一部の役が声優*1によって吹き替えられていること。外部の世界が全く描かれてないこと。台詞が棒読みで現実的ではないこと*2、その他、劇中で説明されていない謎は多い。
おそらくは、この映画の中の世界ではいくつもの矛盾するものが、決してその矛盾を表面化させず共存している。この映画の中に出てくる者は少年であり少女である。現実の肉体を持ったキャラクターであり、アニメのように憑依されたキャラクターである。舞台は日本であり外国である*3。未来であり過去である。そして、生きていながら死んでいる。
はっきり言えば、この映画を理解できた気はまったくしない。数々の矛盾が共存するこの映画は僕の情報処理能力の限界を超えていた。けれども、『少女革命ウテナ』を見た時にはわからないなりに気持ち良い感覚を味わえたのに、この映画ではいまいち乗り切れず、むしろ「不快」とさえ思った。
単純に、これらの矛盾を内包するには現実の肉体というのは限界があるのかもしれない。おそらくはアニメだったら違和感はないだろう。
けれども、だ。それならばこの映画の幕切れに関する、終わらないループから連想させられる不吉で不健全な感触はいったいなんなんだ?これは駄作だと吐いて捨てるにはまったくならない。ひょっとするとアニメというのは、この不健全さをオブラードにくるんで出していたものなのか。
数々の矛盾をむきだしにしたこの表現は、安定した生活を志向する今の自分にとっては劇薬だったのかもしれない。それが、ウテナに心酔したあの夏との一番の違いなのかも。
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